はじめまして。“こにた せいじ”と申します。今年は教務委員なので、ガイダンスで顔は知られてますかね。さて、この授業は、多くの皆さんにとって、大学生活最初の授業、最初の専門科目ですね。ドキドキしますねぇ。この授業を通して、高校までの国語・古文と、大学で学ぶ所謂「文学」の違い、更に言えば「言語文化」と言うことについて、理解してもらえたら嬉しいな、と思っています。その上で、面白いな、と感じたら、来年日本アジア言語文化コースに進んで下さい。
追々解っていただければいいことですが、この授業は、古文の授業ではありません。古文を主要な材料にしながら、いろんなことを考えます。そのなかで、外国語や、古文・漢文の知識、或いは、総合的な国語力がなぜ必要なのか、と言うことについての疑問に対する答えも見えてくるのではないかと思います。積極的に授業に参加すれば、の話ですが。
さて、取り敢えず、第1回ですから、この授業の概要を説明しましょう。シラバスを引用しておきます。
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授業の目標
古典作品読解力の涵養・国語教材の研究・日本を代表する古典に関する教養の獲得。
「作品」と「解釈」の関係について考えること→何かを「解釈する」という行為そのものが、極めて「文化的」営為であるということを確認し「言語文化論」について理解すること。
授業概要
【概要】
高校の古文教材として読まれてきた『おくのほそ道』と言う作品は、はじめ板本として流布し、後に板本の原本・稿本などの写本が発見される毎に解釈が変更されると言う研究の歴史がある。古文教材としては部分的な読解にとどまってしまうこの作品が、実際にはどのように成立し、どのように解釈されてきたのか、と言うことを概観した上で、我々はこのテクストから何を見出すのか、と言うことを考えてみたい。
【講義計画】
1、古文教材としての読み方(全体と断片・表層と深層・「答え」)
2、教材としての「文学」(「国語」教育と「文学」教育、或いは「道徳」教育)
3、『おくのほそ道』と『奥の細道』の間(本文とは何か。決定稿・草稿、版本・写本)
4、旅の真実・真実の旅(曾良「旅日記」発見前後)
5、「歌枕」と「風景」(「風景」は「近代」に発見された?)
6、「物語」としての『おくのほそ道』(「登場する人物は実在する人物とは関係ありません」)
7、作品の「解釈」(私たちは何を読んでいるのか?)
8、翻訳という解釈(現代語・外国語・漫画・写真集・ビデオ)
9、「解釈」とは何か
10、文学から言語文化へ
授業の進め方
講義形式。毎回授業に関する意見を書いてもらい、次回以降に反映することになるが、授業中などにも随時自発的に発言して欲しい。
履修にあたって
この講義は、1年生のための日本言語文化入門としての意味もある。単に一つの作品を読んで勉強する、と言うことではなく、言語文化学科で学ぶと言うことの積極的な意味を考えながら参加して欲しい。
関連授業科目
1年生なので、他のコースの授業を受講し、関連づけて考える態度を身につけて欲しい。
テキスト・教材・参考文献
『おくのほそ道』乾裕幸編 双文社出版 1990年 \1400(第2週目までに、注を含めて通読していることは受講の大前提)
*必要な人はテキストと別に現代語訳などを購入して読んでおくこと。その他の参考書も含めて、詳細は最初の授業で紹介。
成績評価
★レポート2回。1回目(第3回の授業時締切):テキストを通読した感想。2回目(7月末締切):『おくのほそ道』に関する範囲で自由に論じる。
★出欠は評価の対象としないが、遅刻にはペナルティを科す。*詳細は最初の授業で説明。
備考
国語・古文が苦手でもかまわないが、予習・復習をする気のない人は受講しないで欲しい。
質問等は、e-mailで随時。 jjskoni@ipc.shizuoka.ac.jp
科目等履修生の受講・県大との単位互換 可
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と言うことで、成績評価などについては補足説明が必要ですね。
成績は、二つのレポートのみでつけます。どちらか一方でも締切までに提出されなければ、単位を放棄したものと見なします。
一つ目のレポートは、再来週、つまり4月24日のこの時間までに提出して下さい。これは、テキストを通読していることの確認です。テキストは事前に注文してありますので、既に入手可能な状態だと思います。万が一入手できない場合や、古文が全く読めない人の場合は、現代語訳でも構いませんので、必ず通読して下さい(授業では、テキストの頁・行を指示しながら話をしたり、注を使ったりしますので、必ずテキストを購入して下さい。現代語訳などの参考書を手元に置く人は、教科書の隅に、参考書の対応するページ数を書き付けておくと便利です)。そして、全体を通読したことが判るような感想文を書いて下さい。分量は特に指定しません。
二つ目は、授業を最後まで受けた後で、自分でテーマを設定して、文献を調べたりしながら短い論文のような物を書いて貰うものです。締切は7月31日(月曜日)です。書式・分量は自由です。別の機会に説明しますが、独りよがりの感想文や、誰かの本を写したりまとめたりするのではなく、自分で問題設定をして、学術的な手続きを踏んで結論に到ると言う形式を重視します。
成績の配分としては、前者を2割、後者を8割と考えています。その上で、これらの合計が5割に満たない(つまりそのままでは不可になる)場合に、救済措置があります。それが、「御意見帳」です。
「御意見帳」は、毎回の感想・意見・質問等を書いて貰い、毎週回収して、次回の授業に反映させるための物です。出欠は、評価の対象にしませんので、二つのレポートが優秀であれば、全く欠席していても問題ありませんが、逆にレポートだけでは不可になる人の場合は、「御意見帳」によって、授業への積極的な参加が認められれば救済します。明らかな代筆のような物があった場合は、不可ですから、そのような行為はしないで下さい。
「御意見帳」の第1回目の欄には基本的な情報の他に、「連絡先」と「シール」の欄があります。「連絡先」は、かなり積極的に出席した人のレポートが届いていない場合など、トラブルが想定される場合にこちらから連絡を取るために必要なものです。電話番号でも、e-mailのアドレスでも構いませんが、緊急の場合に確実に連絡が付く物を記入して下さい。不要だと思う人・プライバシーを知られたくない人は記入しなくていいです。「シール」欄は、プリクラシールなどを貼るところです。なかなか顔を憶えるというわけにも行きませんが、少しは努力したいので。最近の学生は、必ずと言っていいほどシールを持っている様なので、来週以降でも、気が向いたら貼って下さい。勿論強制はしません。
「御意見帳」には、もう一つ役割があります。それは、遅刻の管理です。欠席は授業の妨げにはなりませんが、遅刻は授業を中断させたり、集中を途切れさせることがありますので、厳に謹んで下さい。このことについての考えを以下に書いておきます。納得できない人は受講しない方がいいでしょう。
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*出欠及び遅刻者の取り扱いについて
大学の授業は、単位制ですから、一つの教室に一日中いて、教師が入れ替わるのではなく、学生が、自分で選んだ授業に出席する形式です。従って、早朝や、前の授業が遠い場所で行われた場合など、授業に間に合わないこともあります。また、自己管理が出来ないと、つい欠席してしまいがちです。実際のところ、教員も、週に一回しか会わない学生の顔を全部憶えるのは大変ですから、休んでもばれにくいと言う側面もあるわけです。そんなわけで、大学になれてくると、遅刻や欠席が目立つようになります。そのことについて、私は次のように考えています。
先ず第一に、私は、出席によって成績評価をするのは間違っていると考えています。単位を認定するのは、辛抱強く授業に出たことではなく、私の授業から何かを得たこと、他の人に「○○のことは小二田に学んだ」と言っても良い、と許可することを意味しているのです。ですから、ただ授業に出て、雑談したり、他の授業の予習をしているのでは意味がありません。従って、授業の時間帯に、他に有意義な過ごし方のある人は、出席する必要はありません。授業を通して私の伝えたいことが正確に伝わっているか、あるいは既に身に着いている人なら、出席無しでもいいレポートを書いてくれると思います。
次に遅刻です。遅刻は、欠席よりたちが悪いと思います。授業に参加する気のない人の存在は、他の学生にも悪影響を及ぼします。単位のために履修しようとする人は、他の授業に行ってください。8:40開始は早いようですが、静岡大学に入学した以上、これは契約です。遠くて来られないなら近くに引っ越してきてください。小学校から高校まで、また、卒業後の社会人生活も、遅刻は認められないのに、大学生だけに認められているかのような風潮は間違っています。自信のない人は受講を諦めてください。
このような考えから、遅刻者への対応として、新しい方法を採ることにしました。第1回に配布する表(御意見帳)に、毎回の意見や感想などを記入してください。8:40より少し前に配布し(番号順に並べておきますので、各自受け取って着席してください。人の物を持っていかないこと)、9:00になっても私の手元にある分については、遅刻のマークをします。欠席は、成績評価には含めませんが、遅刻は、成績から減点します。
こういうことを去年やったら、授業の終盤頃になって、ずっと出席していなかったので、どんなレポートを書けばいいのか判りません、と言う学生が出てきました。そういう人は、私の単位を認定するわけには行きませんから、単位は放棄して貰うしかありません。私の授業をまじめに聞いて理解しなければまともなレポートは書けないと思って下さい。
また、遅刻がペナルティになるなら授業に出ない方が得なのか、という意見もありました。もっともな話ですが、この議論はおかしなところがあります。いい成績が欲しいのか、私の話が聞きたいのか、と言うことです。私は、聞き逃したことを後悔させるような授業を目指しています。レポートが優秀なら遅刻のペナルティなど大した影響はありません。授業に迷惑のかからないような入退室も工夫次第でしょう。
もう一つ大事なことがあります。私の授業は、配布物がとても多くなります。それらは全て授業で扱うわけではありませんが、必ず通読して下さい。また、煩雑になりますので、第3回以降、前の週のプリントは次の週には持ってきません。やむを得ず欠席する人は、誰かに預かって貰うか、コピーさせて貰って下さい。試験や宿題などについての細かい情報は、プリントによって連絡します。たまたまその時休んだので知らなかった、というのは受講するものとして失格です。プリントにある情報を質問する場合は、それなりのペナルティを覚悟して下さい。
1年生が多い授業なので、こういう話をすると、びっくりしてしまうかも知れませんが、追々事情は理解してもらえると思います。その時、私の授業の意味に気づいてもらえればいいなと思っています。
ところで、一太郎の記録によれば、私が半期の間ワープロに向かっている時間は、講義一つあたり3000分を超えています。12回ぐらいですから、一コマあたり250分、つまり4時間以上を費やしている計算になります。ワープロを起動したまま考え事をしていることもありますが、逆に、本を読んだり調べたり、印刷したりコピーしたりと、ワープロを使わない時間もかなりありますから、実際に授業の予習に費やす時間はそれ以上です。この授業には宿題のような物はありませんが、皆さんも、授業以外で1週間に2時間ぐらいは、この授業について考えたり、何か調べたりする時間を持ってくれることを望みます。
私は質の高い授業をするつもりです(全員がそう評価してくれるとは思っていませんが)。こっちが本気で取り組む以上、皆さんの取り組みも真剣であって欲しいと思います。いい加減なレポートは提出されても不可にします(去年7%ぐらいいました)ので、そのつもりでいてください。
何だか仰々しいことをいうようですが、授業は楽しく進めたいと思っています。気持ちの良い授業環境づくりに御協力下さい。短い間ですが、よろしくおつきあいのほど。
*「御意見帳」がありますので、履修カードは必要ありません。履修届は、忘れずに、期限内に学務係に提出して下さい。
*連休中の5月1日も授業を行います。
本日の話題
今日は、ガイダンスで終りでしょうねぇ。シラバスを眺めながら、この授業のねらいのような話をします。
参考文献
『おくのほそ道』には、膨大な参考文献があります。以下のリストは、数年前に私が作ったもので、私の手元にあるものを中心に、比較的入手しやすいか、あるいは非常に重要なものを示してあります(定価は私が買った時の物なので、あてになりません。文庫は古本屋なら100〜300円位で買えるでしょう)。尚、古典文学の全集類には必ず入っていますので、ここには挙げません。文庫同様、それぞれに工夫・特徴がありますので、必ず比較して参考にしてください。
何分有名な作品ですので、沢山参考書があります。一つ読んで満足しないことが大切です。比較しながら自分で納得の行く読み方を構築してください。また、このリストを作ったあとで発行された物も沢山ありますし、インターネット上でも、かなり有益な情報が流通しています。。私も補足・紹介しますが、皆さんも気づいたら教えて下さい。
1 別格
79、11 阿部喜三男・久富哲雄『詳考 奥の細道 増訂版』日栄社 15000
59年阿部氏旧版に久富氏が増補。近世以降、79年当時までに公にされた関連文献を網羅しているといって良い内容。これ以降の物は、『俳文芸』『連歌俳諧研究』など の雑誌を参照のこと。
2 本文を掲載する文庫・新書など
52、8 潁原退蔵・能勢朝次 『奥の細道』角川文庫 426 ? <入手困難>
地図・注・評釈・訳・補説・俳句評釈・「芭蕉の旅と風雅」・解説・索引
56、9 荻原井泉水 『奥の細道ノート』新潮文庫 草207 A 220
評釈
66、10 飯野哲二 『奥の細道』学燈文庫 400
地図・序編(解説)・通釈・語釈・批評・道筋及び日程・索引
66 NOBUYUKI YUASA 『THE NARROW ROAD TO THE DEEP NORTH AND OTHER
TRAVEL SKETCHES』(PENGUIN CLASSICS)USA (1500)
INTRODUCTION・[THE RECORDOS OF A WEATHER-EXPOSED SKELTON][A VISIT TO
THE KASIMA SHRINE][THE RECORDOS OF A TRAVERL-WORN SATCHEL][A VISIT TO SARASHINA
VILLAGE][THE NARROW ROAD TO THE DEEP NORTH]・MAP・NOTES
67、9 潁原退蔵・尾形仂 『新訂 おくのほそ道』角川文庫 黄10-2 560
注・評釈・訳・発句評釈・「曽良随行日記」・解説・芭蕉略年譜・歌枕解説索引・索引・地図
68、1 飯田満寿男 『文法全解 おくのほそ道』旺文社 580
解説・品詞分解・訳・探求(設問と解答)・地図・年譜・索引
75、8 板坂元・白石悌三 『おくのほそ道』講談社文庫 古5-1 420
注・補注・図版・訳・解説・近代の目・地図・文献・索引
79、1 萩原恭男 『芭蕉 おくのほそ道』岩波文庫 黄206-2 350
注・補注・「曽良旅日記」・「俳諧書留」・「奥細道菅菰抄」・「芭蕉宿泊地及び天候一覧」・地図・「主要引用書目一覧」・索引・解説
80、1 久富哲雄 『おくのほそ道』講談社学術文庫 452 680
訳・語釈・句解・解説(各章・全体)・索引・地図
80 DOROTHY BRITTON 『A HAIHU JOURNEY Basho's Narrow Road to
a Far Province』(KODANSHA INTERNATIONAL) 1050or1100
INTRODUCTION・BASHO'S ROUTE(MAP)・奥の細道(日本語本文)
81、4 森川昭・村田直行 『おくのほそ道』創英社(全対訳 日本古典新書) 670
はじめに(解説)・注・訳・「芭蕉の生涯」・日程一覧
86、10 竹下数馬 『「奥の細道」の虚構と真実』PHP研究所(二十一世紀図書館
0079) 570
地図・評釈(死と再生)・図版
88、5 麻生磯次 『奥の細道 他四編』旺文社(対訳古典シリーズ) 460
地図・本文(奥の細道・野ざらし紀行・鹿島紀行・笈の小文・更級紀行)・注・訳(見開対照)・「曽良随行日記」・解説・「若い世代と芭蕉」(大岡信)・文献・年譜・俳句索引
89、3 井本農一・村松友次・土田ヒロミ 『奥の細道を歩く』(とんぼの本)新潮社 1600 地図・カラー写真(現代風景写真中心)・曽良本本文・注・解説・旅行ガイド
89、4 山本健吉・渡辺信夫 『図説 おくのほそ道』河出書房新社 1500
地図・訳・解説・年譜・カラー写真(近世資料図版中心)
90、3 乾裕幸 『おくのほそ道』双文社出版 1400 (今回のテキスト)
地図・注(注・発句校異・「曽良旅日記」・「俳諧書留」・「奥細道菅菰抄」・典拠・関連書)・「細道関係芭蕉俳文」・「細道関係芭蕉書簡」[特筆物!]
91、 SAM HAMILL 『NARROW ROAD TO THE INTERIOR』(SHAMBHALA)(1500)
ACKNOWLEDGMENTS・TRANSLATOR'S INTRODUCTION・NOTES・BASHO'S ROUTE(MAP)
ILLUSTRATED BY STEPHEN ADDISS
95、5 平井照敏 『『おくのほそ道』を読む』講談社学術文庫1176 780
地図・評論
96、4 堀切 実 『『おくのほそ道』 永遠の文学空間』(NHK文化セミナー(江戸をよむ)ラジオ講座テキスト)
*翻訳書についてはTHE JAPAN P.E.N.CLUB『JAPANIESE LITERATURE IN FOREIGN LANGUAGES 1945-1990』(JAPAN BOOK PABLISHERS ASSOCIATION,'90)、前携平井氏文庫及び雑誌所収佐藤和夫氏論文参照のこと。
3 特に注目すべき文献など(既に文庫になっている物があるかも知れない)
上野洋三
現在最高の芭蕉研究者と言って良い人。「自筆本」の筆跡鑑定をした。以下の2冊は、この講義の土台になっている。
86、10 『芭蕉論』筑摩書房 2800
89、11 『芭蕉、旅へ』岩波新書 赤95 550
竹下数馬
『おくのほそ道』を「死と再生」の文学として読むという視点を提唱し続けている。 注目すべきき重要な問題だが、かなり荒っぽい。2に挙げた新書だけ読めば足りる。
79、4 『死と再生の文学』読売新聞社 980
94、9 『芭蕉、マンダラの詩人』クレスト社 1400
久富哲雄
芭蕉、特に『おくのほそ道』研究の番人的研究者。12に挙げた本の他、下の本のマニアックな
情報と手書き地図は特筆に値し、注釈にも十分対応できる。本文付。
94、6 『奥の細道の旅ハンドブック』三省堂 1500
藤本泉
「〇〇の謎』という本を色々出している、かなり怪しい大正生まれの女流ミステリー作家。この本も怪しい。
86、7 『作者は誰か『奥の細道』』パン リサーチ インスティテュート 1500
村松友次
芭蕉忍者説を提唱している胡散臭さのある人物ではあるが、下の本は、近年の『おくのほそ道』研究史における最大の成果。
88、2 『曽良本『おくのほそ道』の研究』笠間書院 14500
4 その他
漫画
84、3 『奥の細道』学習研究社(赤塚不二夫のまんが古典入門8) 500
赤塚不二夫・指導:中村穎司
*部分的に本文・訳あり。「まじめ鑑賞」「ミニメモ」解説あり。シリーズ名が変わっているが参考書売場にあり。
89、8 『まんが゙ 芭蕉 おくのほそ道』平凡社 900
広岡球志・監修:内田保広 *芭蕉の伝記を兼ねる。かなり独自の大胆な解釈による。大人向け。
91、11 『おくのほそ道』くもん出版(くもんのまんが古典文学館) 980
岸田恋・監修:平田喜信 *部分カラーで綺麗。子供向け。
95、10 『奥の細道』中央公論社(マンガ日本の古典25) 1300
矢口高雄 * 蕉の半生〜出羽三山まで。参考文献。
雑誌
89、5 『国文学 解釈と教材の研究』34-6、学燈社、「おくのほそ道とは何か」
*『国文学』(学燈社)、『国文学 解釈と鑑賞』(至文堂)には他にも芭蕉や俳諧の特 集があるので要チェック。
その他(研究のための基礎資料となるもの)
62、9 『奥の細道総索引』井本農一・原岡秀人、明治書院
81 『校本 おくのほそ道』西村真砂子、福武書店
84、2 『芭蕉語彙』宇田零雨、青土社
前回出席者(御意見帳を出した人)は、31名。そのあと3人、出たいという人が来ました。ガイダンスなどで恐れを為したのか、天気が悪かったせいなのかわかりませんが、思ったよりは少なくて、私としてはほっとしていますが、他のコースを希望する人も来てくれたら面白いのになぁ、とも思います。今日、少しは増えますかね。
朝が辛い、という人もいますが、浜松から電車で来る人もいます。がんばりましょう。まぁ、前期は暖かいので、雨の日の不愉快ささえ克服できれば大丈夫です。後期は寒いし、学校に慣れてくるので緊張感がなくなって大変だけど。
合宿、どうでしたか。私は、週末は古い卒業生(子供を連れて遊びに来た)と会ったり、落語(小朝)を見たりして過ごしました。花の種は蒔きましたか? 今日も持ってきました。まだ間に合いますし、発芽率の低い物が多いので、沢山持っていってください。ハーブに興味のある人もいるようなので、時期を見て、苗をあげますよ(増やせたら色々交換しましょう)。更に、私の畑(市民農園を借りている)を手伝いたい人も名乗り出てくれると助かるかも。そういえば、学校の中が、今筍刈りシーズンなのを知ってますか?
テキストは既に入荷しているそうです。購入しましたか? 読みにくいので驚いたと思います。なぜ読みにくいのか、ということも考えるといいですね。まぁ、取り敢えず、現代語訳は買いましょう(私の所に見本がありますので、興味のある人は見てから決めてもよいです)。
前回の御意見
大学に入って初めての授業という人が殆どだったので、緊張・ドキドキ、という人が結構いました。みんなそうですね。留学生の3人も出てくれていますので、出来るだけ解りやすく話そうと思います。日本人の学生達は、私の授業をもう一度彼女たちに解説してあげると、自分の理解も高まるのでとても勉強になると思いますよ。一方で、比較希望・欧米希望、3年生、それに、私の授業は3回目、という人もいます。有り難いことです。歓迎します。私のことを「期待通りの人」と書いてくれた人は、どういう意識なのか解りませんが、裏切らないようにがんばります。よろしく。
予備知識については、みんな、通読した記憶はなく、漫画で読んだり、授業でも扱われなかったり、というところのようですし、古文は好きだけれど得意ではない、という人が多いようですね。これって、問題だなぁ。文法中心の授業だった
、という人が多いところがいけないのかな。古文の授業をどうしたらいいのか、ということについても一緒に考えましょう。これでレポート(「私なら『おくのほそ道』でこんな授業をする」とか)でもいいですよ。
レポートが不安な人もいますね。これもきっとみんな一緒です。いろんな考え方を学んでもらって、論文の書き方を身につけさせるのも私の仕事ですから、そんなに心配しないでください。他の様々な講義との関わりとか、とにかくアンテナを拡げること、話を鵜呑みにしないで色々考えることを怠らなければ、収穫は予想以上だと思いますよ。
取り敢えず、楽しそう、という印象を持ってくれればOKです。少しぐらい難しくても何とかなるでしょう。質問はいつでも歓迎です。「高校でちょっとだけ触れた面白そうなこと」が沢山聞けそう、そうしたいですね。「自筆本」にも興味がある、「全部やる・深くやる」に期待、これは多分新鮮で良いと思いますよ。
芭蕉もその弟子達もいい格好をしてるだけのような気がして嫌い、という人もいます。印象は変わるかなぁ、もっと強くなるかもなぁ……。芭蕉は神格化され過ぎてるからなぁ。
その他、実芭蕉(バナナ)のこととか、色々植物の話題が多かったので、こういう知識も大事だ、と言う感想もありました。自然にあるもの、四季の風物などは、俳諧の理解には欠かせませんね(多かれ少なかれどんなジャンルでもそうなんですが)。とにかくいろんな知識を持つことは、自分の解釈を拡げてくれるので、自然科学も含めて教養を身につけてください。
あと、古本屋について質問がありました。古本屋を利用するのはいいことですね。生協でも時々古書市をやりますよ。静岡では、郊外と駅の南口にBOOK
OFFなどの大型の古書店がいくつかありますが、参考書の類は多分期待できないでしょう。市街地では、新静岡センターの北側、北街道沿いに2軒ぐらい、浅間神社の参道に数件、それに両替町通りの七間町通りよりも北側にある安川書店などがあります。東京なら簡単に見つかるんですが、古本屋で参考書を見つけるのはきついかも知れません。東京に用事がある人は、一度神保町をまわってみることをお薦めします。
『永遠の仔』の話が出たので、見ます、と書いてくれた人がいました。私は読んでない野で、比較できないんですが、印象はどうでしたか。小説とドラマという、メディアの変更は、一つの翻訳ですね。言葉は同じなんだから簡単か、というとそうでもない。メディアってなんだろうか、ということも、この授業で考えてみたいですね。トラウマの話は、文学とは関係ないような気もしますが、結構関わってくるのかも知れません。
本日の話題
シラバスの
1、古文教材としての読み方(全体と断片・表層と深層・「答え」)
2、教材としての「文学」(「国語」教育と「文学」教育、或いは「道徳」教育)
3、『おくのほそ道』と『奥の細道』の間(本文とは何か。決定稿・草稿、版本・写本)
辺りを混ぜ合わせながら導入第二弾的な話をします。
教材論は、今後も時々顔を出すと思いますが、取り敢えず、『おくのほそ道』がどのように扱われているか、という話を簡単にしておきます。
その上で、少し複雑ですが、『おくのほそ道』発見の歴史についての話をしましょう。
参考文献追加
98,10『『おくのほそ道』と古典教育』堀切実編 (早稲田教育叢書6)早稲田大学教育総合研究所
00,4『芭蕉の誘惑 全紀行を追いかける』嵐山光三郎 JTB
影印テキスト
69,10『柿衛本 素龍筆 おくのほそ道』岡田利兵衛 新典社 (柿衛本) 1960発見
72,4『奥の細道 素龍清書本』(復刻日本古典文学館)日本古典文学会 日本古典文学刊行会
(西村本・細道伝来記・解題) 1943発見
75,3『元禄版 おくのほそ道』雲英末雄 勉誠社 (井筒屋本・解題・図版・参考文献)
94,11『おくのほそ道 曾良本』(天理図書館善本叢書 和書之部 第十巻別冊)編集委員会 天理大学出版部
(曾良本) 1950発見(旅日記は1943刊行)
97,1『芭蕉自筆 奥の細道』上野洋三・櫻井武次郎 岩波書店 (野坡本) 1990発見
自筆本関係
97,7『芭蕉自筆「奥の細道」の謎』上野洋三 二見書房
97,10『芭蕉の文墨−その真偽−』山本唯一 思文閣出版
97,10『芭蕉自筆「奥の細道」の顛末』櫻井武次郎 PHP研究所
宿題
教科書は先週の段階で入荷していたことが確認できましたので、予定通り4月24日のこの時間までに全体を通読したことが判るような感想文を提出して下さい。分量は特に指定しません。締切までに提出されなければ、単位を放棄したものと見なします。当日やむを得ず欠席する人は、事前に研究室に持参してください。事前に連絡もなく、あとで持ってくる場合は受けつけません。
先週6人増えて、合計37名と言うことで、まぁ、確定でしょう。欠席が少なかったのは何よりです(今日宿題が出ない人は降りたものと見なします)。
教材を見てもらうために今後もプロジェクターを使いたいので、来週あたり教室変更があるかも知れません。掲示に注意して下さい。
なお、既に承知のことと思いますが、来週も授業はあります。出欠は取りませんから、予定のある人は休んでも構いませんが、出席する人にプリントを預かってもらうなどの対策を立てて下さい。また、それによって授業が解らなくなってしまってもフォローはしません。出席した人に聞くなどして復習しておいて下さい。
前回の御意見
宿題はやってきましたか? 古文の教科書と違って読みにくいということは実感してもらえたようですが、訳本は見つかりましたか? 先週の月曜、授業のあとで街中の吉見書店に行ったら学術文庫は棚にありましたよ。1年生なので、静岡の本屋事情に疎い人が多いと思いますが、慣れるためにも自力で探しましょう。静岡で専門書が一番多いのは、多分新静岡センターの丸善です。あと、呉服町通りの谷島屋・江崎書店、郊外型の本屋では、戸田書店がよいです。その他、取りあえず図書館を探すという手もあるわけですよね。
古文の教科書が読みやすいのは、原文に適宜漢字を宛て、句読点を付けているからです。古文は、殆どひらがなの文芸で、句読点や改行・段落わけなどはありません。従って、そういう操作をすること自体、解釈を伴っているわけです。今回の教科書はそのあたりを可能な限り配慮してあると言うことです。
その上で、「ハ」だけカタカナなのはなぜか、という疑問は当然ありますね(実際には「ハ」だけではありませんが)。これはちょっとややこしいです。順を追って説明しましょう。
まず、「は」を表す文字(haと発音する表音文字として利用される漢字)には、「波」「八」「者」「盤」等があります。そのうち、現代では、「波」を草書体にして簡略化した物がひらがなの「は」として使われ、「八」を簡略にした物がカタカナの「ハ」として使われています。しかし、江戸時代には、「ハ」はひらがなとしても使われていました(ミ・ニなども同様です)。そういう意味では、他の字と同様に、原文が「ハ」となっていても、「は」に統一してしまえばいいわけです。ところが、(正確にいつ頃からなのか私は知りませんが)助詞として使用される「ハ」「ニ」や、送りがななどでは、意識的にカタカナが使用されることが多くなってきます。そういう意識の反映として、カタカナとして意識されていたであろう字については、カタカナで表記する、という操作が生まれたと考えられます。学問の世界では、こういうやり方が一般的ですが、前に書いたように、「は」で統一してしまっていいような気もします。一つの音を表す漢字は、いくつもあって、そのうちの一つが公式なひらがなやカタカナになったのは、近代に入ってからで、これも正確なことは判りませんが、戦前ではまだ、「尓」をもとにした「に」や、「春」を基にした「す」の活字が存在していたのですよ(この辺も、今日のプリントで確認しましょう)。
前回は、『おくのほそ道』と『奥の細道』の違い、ということで、本文について話しました。高校までの授業なら横道の話なわけですが、みんな、結構興味を持ってくれたようです。奥が深い、本の凡例に書かれていることの意味が解った、というような、感想がありました。その上で、「本文」「作者」とはなにか? 我々が読んでいる古典文学は何物か? という疑問も出てきました。また、歴史や人間が生み出すズレに興味がある、正確に写して欲しかった、現在の小説では作者の文章がそのまま活字になる、と言う意見もあります。これに対して、少し長くなりますが、以下のような意見もありました。
「文章を作者以外の人が変えない」ということはそんなに重要なことだろうか。現代でも出版された本は“編集者という作者でない人”が手を加えている。「奥の細道」に素龍が手を加えたからと言って素龍を「くわせ者」と呼んでいいのだろうか。芭蕉が承認しているのだから、素龍が編集している方がいいのではないのでしょうか。
私の説明が悪かった部分がありますので、最初にお詫びして訂正します。素龍が「くわせ者」だというのは、記憶にないぐらいいい加減な発言です。でも、多分言ったのでしょうから、取り消します。その上で、素龍と芭蕉の本文に対する考え方を推測した話を思い出してください。彼らは散文に関して、「完全に正確な、固定された本文」という考えを持っていなかったのではないか、ということです。芭蕉は句作そのものでも他人の意見を受け容れる人だったようですが、私は、そういう個人の資質だけではないのではないかと考えています。これは、現代の編集というのとは少し違う気がします(現代の、所謂「文学作品」では、どの程度の「編集」がなされているのでしょうか。それには、「作者」がどの程度関与しているのでしょうか。そういうことに関する情報があったら教えて下さい)が、比喩としては有効でしょう。和歌や俳諧の場合、他人が本文を変えることは出来ません。しかし、散文の中のある部分に関してはそれが可能です。「伝承文学では作者の意志はどうなるのか」というような、そのことを考えるヒントになる意見もありました。古典文学の作品の中には、「作者不明」の物が沢山あります。それらは、「不明」なのではなくて、個人としての作者がそもそもいないのです(別の言い方をすれば、その作品が作者を必要としていないということ、「読人不知」とは違いますね)。『おくのほそ道』はそのあたりが非常に微妙な作品なのです。
現代小説の話に戻しましょう。編集者が手を加えて刊行された作品(Aとしましょう)は、やっぱり「作者」個人に帰属しますよね。印刷され、刊行されたあとで更に誰かが勝手にいじったとして、それでもなおAである、とは言えませんね。それは著作権の侵害にもなるわけです。ところが、『源氏物語』や『平家物語』など、日本の古い散文では、こういうことが簡単に行われています。それは、権利意識の有無という問題ではなくて、作者・読者と作品の関係が、今の小説とは決定的に違う、ということなのです。話が逆になってきましたね。意見を書いてくれた人は、現代の小説について許容されていることだから、古典でも当然、という方向だったのですが、実は、現代では、殆ど許容されていないと言うこと、逆に古典ではそもそも、固定された本文という意識がない作品が存在する、ということです。長くなってしまったので、この辺にしておきましょう。この問題はこの授業のテーマにも関わってくることです。なお、火曜日の1時間目にやっている文学史でも、似たような話をしていますので、興味があって、時間があいている人はのぞいてみて下さい(1・2年生は単位になりませんが)。
さて、先週の授業は材料についての話が多かったし、資料の重要性のようなことも話したので、資料を使って研究することを本質とはしたくない、感動を大切にしたい、というような意見もありました。学問としての文学の必ず突き当たる問題ですね。この授業を通して、それをどうやって乗り越えていくか、考えられるといいですねぇ。一方で、芭蕉のノートが発見されるか楽しみだ、と言う意見など、資料探求の楽しさを書いてくれた人もいます。また、『曾良旅日記』の記述が事実である根拠はあるのか、という質問もありました。「ありません」としか答えようがないです。この授業の終りの方で、そもそも「事実」とは何か、という話をしますので、この問題は取りあえず棚上げしておきましょう。実は、私のライフワーク的なテーマは、事実はいかにして表現できるのか(出来ないのか)というようなことで、『おくのほそ道』を扱っているのも、それを考える一つの材料としてなのです。勿論、この授業ではそれだけではありませんが、皆さんもそういう問題を考えてくれると嬉しいです。
その他、芭蕉の旅の目的は何だったのか、地方の有力者が援助してくれるほどメジャーなのか、といった疑問、リズムが好きだった、というような想い出(?)もありました。それぞれ、自分のテーマとして、レポートにしてくれたらいいなぁと思います。
あと、細かいことで、西村本と素龍清書本は同じですよね、という確認の質問がありました。その通りです。ただし、素龍が清書した本は西村本と柿衛本(かきもりぼん)と、二つあります。西村本が、井筒屋本の親になったことは明らかなので、清書本と言えば西村本を指すことにあるわけですが、区別するために、なるべく「西村本」と呼んだ方がいいです。
その他。国語教育の中の文学教育の重要性、国語・文学・道徳の関係などにも意見がありました。また、『アルケミスト』との関係はよく解らない、と言う意見もありました。これについてはまたあとで触れましょう。旅の意味を考えたい、という人もいます。ちょっと関係ありそうですね。お父さんも興味を持っているので一緒に勉強したい、という人もいます。親孝行ですねぇ。会話があっていいですねぇ。何か面白い意見が出てきたら教えて下さい。
最後に、留学生の人から、難しい、と言う意見が出ています。日本の大学に入ったのだから日本人の学生と差別することはしない、というのが私の考えですが、それにしても、古文は解りにくいでしょうし、最初ですから解らなくても当然です。しっかり勉強して、解らないことはいろんな人に聞いて下さい。古文というのは、古詩のようなものという限定的なものではなくて、古い日本語の文法で書かれた文芸作品全体を指します。中国で言うと何に当たるのか判りませんが、古くからある詩や、文語体の散文等に当たるのではないでしょうか。
本日の話題
先週解りにくかったようなので、紹介した本のコピーを印刷しました。少し解説します。
今日は、古文の延長のような授業をします。少し冒頭を読んでみましょう。殆どの人が古文の授業で教わっているところですね。どんな授業でしたかね?
私の手元にある参考書(飯田満寿男『文法全解 おくのほそ道』)を見ながら、冒頭から何が読みとれるか、考えてみましょう。他の資料は以下の通りです。
『古文真宝後集諺解大成』林羅山原解・鵜飼石斎増述 寛文三年(1663) (『漢籍国字解全書』第十二巻)早稲田大学出版部 27,2
「『鳥啼魚の目は涙』典拠小考」小二田誠二 『俳文芸』32号 88,12
我々は、古典的な作品を読むとき、辞書を引いたり文法に注意したりしながら、或いは書かれた内容と自分の人生を重ね合わせて感動したりしながら読み進めますね。書いた本人はどういう作業をしていたのでしょうか。天才的な俳人芭蕉は、旅で感じたことを、ありのままに表現することで、感動を与える文章を書き記すことが出来たのでしょうか。
そうやって立場を変えて考えてみると、人を感動させる文章を書くためにどんな努力が必要なのか、と言うことが見えてきます。「ありのままに書く」と言うことが不可能であることにも気づくはずです。
芭蕉の文章だけでなく、韻文や戯曲を含めて、優れた文章は、必ずしも完全なオリジナルではありません。むしろ、よく知られた表現をどのように自分のものにして再提示するか、と言うことが重要です。それによって、表現に深み・拡がりが生まれます。
我々鑑賞者は、そうした製作現場を知らなくても、作品に感動することが可能です。そういう現場に足を踏み入れることは、ロマンを減じ、作品への冒涜に繋がると考える人もいるかも知れません。しかし、作者が何を知っていて、何を知らなかったのか、どこに注意を払ったのかを考えることは、作者を正当に評価する(場合によっては、作者の気持ちを理解する)事に繋がるでしょう(名作と言われるからすごいんだ、と言う受け売りから抜け出すことが出来るだけでも貴重ですよね)。それに、前に書いたように、自分が表現者になる時(文章だけでなく、日常的なコミュニケーションの場でも)の参考になるはずです。それが、国語や古典を学ぶことの、一つの意味でもあるんじゃないかと、私は考えています。
先週は欠席1、その人も宿題を提出したので、全員、第一関門突破ですね。喜ばしいことです。遅刻が若干いるのが気になります。ちゃんとチェックしますから注意して下さい。大学生になって最初の連休ですが、何か計画はありますか? 帰省する人も多いのかな。今日は少し欠席がいますかね。静岡にも楽しいところが沢山ありますから、色々行ってみてください。そういえば、種は芽が出ましたか? 私の所では、野菜の苗が少し余りそうなので、希望者がいれば再来週ぐらいに上げられると思いますよ。
前回の御意見
先週の授業では、冒頭の文章が、どのように作られたのか、という事について、少しだけ検証してみました。天才・俳聖と言ったイメージで片付けてしまいがちな芭蕉の代表作が、言葉を選ぶ推敲や、古典的な作品を自分の物として消化する引用などの努力によって成り立っているのだと言うことを理解して貰えたのではないかと思います。それによって、芭蕉が身近に感じられた、現実に存在した人だという認識をもてた、と言った意見があり、芭蕉が言いたかったことを理解したいと言う意見もありました。
注釈書についての説明が速すぎた、と言う人もいました。取り敢えず私の書いた文章をもう一度読んでください。そして、出来れば、『古文真宝諺解大成』について、自分で調べてみてください。私の言おうとしたことを簡単に言うと、芭蕉は、『おくのほそ道』の冒頭を書くにあたって、李白の文章を李白の原典から直接引用したのではなく、日本で刊行された注釈書の注を利用していた、と言うことです。
また、芭蕉が注釈書を使っていたことについては、納得がいかない、というひと、そういう「物」があったことに驚いた人、古典はみんな昔の物として一括りにしていたと言う人、或いは、典拠探し研究の苦労について、まだ新しい発見がある事への驚き、よい作品を書きたかったら他人の作品を読んで理解することが大事だとか、李白にも興味を持ったといった感想ありました。
また、古典を引用する表現をみんながしていたのか、もしそうだとすればかなりの知識と資金力が必要だったのではないか、と言う意見もありました。確かにそうですね。実際に、江戸時代の早い時期までは資金力がなければ気の利いた文芸活動は出来なかったと思います。ただ、本は借りて写すこともできるし、追々出版も盛んになる(絵入りの注釈書なども沢山出版されます)ので、知識のために資金力を必要とすることは、相対的には減ってきますし、その頃にはそういった知識のない人にも理解される物が求められるようになってくるので、文芸の質そのものが変わってきてしまいます。
言葉の一つ一つを注意深く読むことの重要性、注釈や訳の難しさについて考えてくれた人もいます。「春立る」の意味を誤解していた、と言う人もいました。多分「上野谷中の花の梢」も、誤解しやすいので注釈や現代語訳を確認してください。この季節には桜は咲いていません。後ろの方の話題ですが、キリギリスとコオロギの違い、というのは、江戸時代に問題になっているのですが、古典ではキリギリスとコオロギ、鈴虫と松虫が現在とは逆になっているらしいのです。高校でやった人もいるかも知れませんが、こういうやっかいなことがありますので調べることは大事ですね。
訳の難しさ、と言うことの関連で、外国語訳に興味が出たり、外国人の理解に疑問を持った人もいます。外国文学を我々がどれだけ理解しているのか、と言う問題でもあるわけで、欧米コースで文学を研究する人などは、外国人の日本文学研究の成果を調べてみると良いと思います(ただし外国語で書かれていたら、それを理解しなければなりませんが)。
この授業では、『おくのほそ道』の中身に殆どいきなり入ってしまったために、芭蕉や『おくのほそ道』そのものについての基本的な情報を知りたい、と言う人が何人かいます。取り敢えずは、そういうこと(作者の実人生を調べ上げた上で、作品をその作者像から見る方法)を気にせずに読んでみようと言う狙いもあるのであまり触れる予定はありません。必要を感じている人は、現代語訳などの解説に簡単な紹介があると思いますので読んでみてください。更に調べたい人は、文学関係の事典や、参考文献に挙げた文献を手がかりに探してみてください。インターネットでもかなり調べられます。取り敢えず三重大学のページがリンクを含めて充実していますので紹介しておきます。
奥の細道スタディー http://www.com.mie-u.ac.jp/~hama/study.html
先週配布したコピーの識別は難しかった、等、本文の問題についての反響が続いています。芝居では台本にない物が面白いと言う意見、ありのままの表現は不可能、ありのままとはどう言うことか、作者と読者がイメージするものは違う、事実は自分の中にしかないのか、
解説によく出てくる「歌枕」とは何か、「ゝ」等の記号は何か、プリントの「形・ク・用」はなにか、など、留学生からの質問もありました。歌枕については、今日話をします。文中の記号は、繰り返しを表す記号など、それぞれに意味がありますので、出てきたところで説明します。周りの人にも聞いてください。プリントの本文の右にあったのは、単語の文法的な説明です。詳しい話は日本語の先生に聞いてください。日本の俳人と中国の詩人の共通性等については、人に聞くよりも自分で共通点や相違点を探してみたら面白いと思いますよ。
「作品が作者を必要としていない」というのがいまいち解らない、と言う人がいました。この話は、また出てきますので、取り敢えずどう言うことなんだろう、という事を考え続けてください。古い物語だけでなく、報道や噂・伝説などと、小説や和歌・俳諧などとで作者の意味がどう違うのか、と言うことを考えた上で、『おくのほそ道』はどうなのか、と言うことですね。
他人の意見や質問が興味深い、と言う意見もありました。みんなで話題を共有することで、理解が深まっていく、と言うこともありますから、本当は授業中に質問して欲しいのですが、取り敢えず「御意見帳」でも、有効に活用してください。先週、お父さんも興味を持っている、と言う意見を紹介したら、「私の父も……」という人が現れました。親子で授業の話が出来るなんていいですねぇ。お父さんは西行も勉強せよ、とおっしゃったそうです。有り難いですねぇ。『おくのほそ道』に、西行は欠かせません。今日、早速出てきますよ。
今週の話題
先週の話で、芭蕉が、見たまま感じたままをそのまま文章にしているのではないと言うことは確認できました。また、感想文の中には、旅への思いや表現を讃える意見に混じって、一緒に旅をしていたはずの曾良が意外に少ししか出てこないことや、風景描写がそれほどリアルでないことなど、全部の部分が感動的な素晴らしい文章とは思えない、と言う、否定的な感想もありました。
そうした問題点の中から、今週は、風景描写がリアルでなく、案外つまらないのはなぜだろうか、と言う疑問について考えてみましょう。
そこでキーワードになるのが、歌枕です。歌枕は、和歌などに詠み継がれてきた名所(地名)です。地名以外の「歌言葉」を含めて言う場合もあります。そういう地名や言葉には、必ず連想される物(景物)やあるべき(理想的な)情況(本意・本情)がセットになっています。古典和歌は、この約束の中で表現することを原則としました。俳諧でも同様で、様々な言葉について、連想関係にある語(付合語)を集めた本なども刊行されています。そういう制約は、現在では煩わしい物のように感じられますがど、それによって、わずかな言葉で深い表現が可能になるわけです。そうした表現法(と言うか、鑑賞法)は、日本のある種の閉ざされた文化状況の中で、うぐいすと言えば梅、猪には牡丹、鹿には紅葉、というような、共通理解が容易だったからこその物なのですが、近代以降そういう物が失われてきてしまったので、難しい物になってしまったというわけです。
例えば「白川の関」では、教科書のp29下段にあるように、「紅葉・卯の花」等が景物として詠まれ、全体の状況としては「日数ふる旅」「都恋」というような本意に適った内容になっているというわけです。p29〜30あたりの本文は、まさにそういう古典的な表現にのっかっているわけですが、果たして『おくのほそ道』全体がそうなのか、と言うのが、この授業で問題にする「風景描写」の問題です。以下、要点を整理した物をのせておきますので参照しながら聴いてください。
*尚、別紙の配付資料は、『おくのほそ道』本文に必要な記号をつけたものに対してgrep(指定した文字(文字列)を含む行だけを抽出する)と言う処理をしたものです。本文はインターネットで入手できますので探してみてください。
風景との対話
*『おくのほそ道』の風景描写が、歌枕の呪縛から逃れられないという、近代的な風景論の論調は、『おくのほそ道』を一元的な作品として読み込もうという強引な理解によって成り立っているに過ぎない。『おくのほそ道』に描かれている風景や人物の位相は、決して一様・均質なものではない。
*近世的風景の限界と達成。
*歌枕・旧跡、知識・現状・現実社会。
*和歌と誹諧の文章。俗なる物・貧困。
*定住者と旅人の視点。
室八島
★実景について触れない。婉曲的な知識情報の記述。曾良初出。
*そもそも実景としての風景がない。あるのは、言葉の堆積・神話・縁起。そして「読習し」「世に伝ふ事」。地名も、歌も、言葉であって目に見えるものとは関係ないということ。
*実景が知識と異なるから記述しないのではなく、実景と知識が食い違っていることそのものを受け入れられない自分がいる。認識の不可能。そこに曾良という新しい人格の発生の契機がある。
遊行柳
*西行の表面化・謡曲仕立て
田一枚植て立去る柳かな
★主語をめぐる論争。田植えをする人・柳の精・芭蕉……みんな去っていく、そして柳だけが残る。一面の緑。大いなる越境への一歩。
★曽良はどこに?
白川関
★「歴史的道行文」:旅心・都へ・秋風・紅葉・卯の花
★実景?
★曽良の句:歴史的文脈と実景の遊び、俳諧化。芭蕉は句を詠まない。
★近世的風景描写の限界を論じるときに引き合いに出される箇所。ここを以て芭蕉の風景描写を代表させてしまうことには疑問を感じざるをえない。以下順を追って考えてゆくべき課題。歌枕探索のヴァリエーションに注意。
*[越境後、名所(歌枕、古跡)探索のヴァリエーション]
かげ沼
「物影映らす」→越境の興奮によって、それほど重要な物だと思われていない不安要因。
花かつみ
「人に尋ね侍れとも更知人なし」
・たどり着けない。しかし、余裕はある。
もぢ摺石
「石半土に埋てあり」 「里の童部の来りて教ける」
現地の人の迷惑→「さもあるへき事にや」
・現実に直面。納得する事、記述する事。
・和歌の世界、風流・雅の世界は知識の中にあって、そこに暮らす現実の人生とは必ずしも折り合えないと言う事。(那須原の幻想の消滅)
*定住者・生活者の視点の発見。
*都を中心にして旅を考え、描くそれまでの文学的発想をつき崩す視点の獲得。
佐藤庄司の旧跡
「聞て尋<行く」→「尋あたる」
「人の教ゆるにまかせて涙を落し」
・一転して、人と名所の強固な結びつきを見る、感激。
*貧しい宿
*和歌的世界と現実の生活の関わりに言及してしまった以上、旅の記録の中に、それを無視する事はできない、旅の現実は、決して風流雅事だけでは済まされない。冒頭で言及された馬子と船頭の抽象的な姿からの距離。
*発熱。通過儀礼→「天の命」覚悟。
実方塚
「人に問へは…・教ゆ」→「よ所なから眺やりて過る」
・教えられた場所に行かない事。余裕。
「岩沼に宿る」俳諧性。
武限の松
「昔の姿うしなはす」
*能因→「もぢ摺石」と同様の経験
*現地の人達の配慮「あるは伐あるひは植継なとせしと聞」
:名所・旧跡が、言葉通りでない事、現実の生活が存在する事の承認。現実の生活によって変化する事、変わらない事、失われる物、守られる物。
加右衛門:「聊心ある者」
→年頃さたかならぬ名ところを考置侍……案内
→画に書て送る
→「風流のしれもの爰に至りて其実を顕す」
加右衛門との交流。現地の人であり、「名所」を知る人、「風流のしれ者」
自己の発見へ
おくの細道
「画図にまかせてたとり行は」
*加右衛門との一体感。「風流のしれもの」の「実」の共有を通して獲得した「画図(地図)」によって辿り着いたところに作品の名前になる土地があること。
壷碑
原文を書写すること。直接的に、「古人の心」を体験する。
*歌枕探訪の総括
変わるもの・変わらないもの
末の松山
歌枕の現状
恋、無常、
生活者の姿→和歌の心→哀也
*奥浄瑠璃
ひなび・殊勝
無常→平家→和泉三郎(忠衡)
塩竈明神<早朝>
輝き・五百年前の銘文
「和泉三郎(忠衡)」→義経ヘ
*500年という数字、西行500年忌
*「勇義忠孝の士」
松島逍遥(船遊び)<午後>
「抑ことふりにたれと……」典拠のある表現.対句、漢詩的。
「造化の天工いつれの人か筆をふるひ詞を尽さむ」表現の不可能性という表現。
雄島が磯く宵>
無名の隠者たちの暮らし……「なつかし」
自然→人事→自然
二階<夜>
「風雲の中に旅寝する」→自然の中にある自分、一体感。
曽良(自川以来)代作の可能性。但し『猿簑』に曽良の句としてあり、
*芭蕉は「島々や千々にくだきて夏の海」の句あり。
→餞別吟の披見=感動の共有。肯定的沈黙 。
立石寺
「一見すへきよし人々のすすむるに依て」
予定外の気楽さ:背景・予備知識を持たないこと。自由に目前の景と対峙して句を詠める。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
*どこでもいい。文脈によらず表現が自律している事。前半部との明らかな違い。
*少なくとも、地名を必要としないこと。地名の持つ蓄積によりかからないこと。
*歌枕でなければ自由に風景を眺め、記述することができるのか。風景の描写は、歌枕の呪縛から解放されたとしても、予め持っている別の風景の言葉を再構成することでしか表現できない。
*風景を記述する方法は、4通り有り得た。1は、歌枕の呪縛に身をゆだねること。2は、歌枕に新しい意味や視点を加えて更新すること。3には、歌枕でない、即ち、言葉の蓄積を持たない風景を発見し、それを別の表現を援用して記述すること。そして4には、全くオリジナルな表現をすること。しかし、実際には、4は、当時、否、現在でもなお不可能なことではないか。
*これ以降の主人公と曾良の関係は共同作業的である。前半のいびつな形の分裂状態が、次第に友好的なものに変化している。
汐越の松
★歌枕と本格的に対峙する最後の場所であり、既に曽良は居ないという状況の中で、今までの歌枕との格闘、試行錯誤を超越して、初めて眼前の風景と古歌・古人の心との一致を体験する。それは、西行思慕の強さとか、降伏宣言とか言うようなものではなく、自然と伝統とを自己と一体化できるという新しい境地へ到達したことを示すものと考えられないか。
この後も歌枕は出てくるが、それらは取り立てて注意を払い、表現を尽くすものではない。もはや、目の前にあるものから、何かの意味を引き出そうと努める必要はなくなっている。「清風」あたりからの人を見る目の変化がさらに万物へ開かれてきたということか。
先週は欠席4、その内3人が3年生でした。火曜日の文学史(34年生対象)はもう少し欠席がいたので、この授業は(と言うか1年生は)、当然のことなのだけれど出席率がいいなぁ。このまま卒業までこうだといいんですが……。最初にきつそうな印象を与えたのがよかったのかな。
ところで、その後芽は出ましたか。暖かくなったので、さすがにそろそろねぇ。全然出ない、と言う人もいましたが、暖かいところに置いて、水をたっぷりやってみてください。そのうち、ウチの庭に勝手に生えてくる物もあるので、欲しい人には適宜差し上げましょう。取りあえず、白粉花が沢山あるんですがいりませんかねぇ。あと、野菜ですが、唐辛子類(鷹の爪・シシトウ・甘長のどれかは実が生ってみないと判らない)とトマト類(これもいろいろ)、それに、フェンネル、イタリアンパセリがあります。それと金糸瓜(そうめんカボチャ)という、茹でてサラダに使ったりする瓜もあります。その他、追々バジルやローズマリー、ラベンダーも株を増やしたら差し上げられます。希望があったら書いといて下さい。少しずつ持ってきます。
それから、鳥の声についての質問もありましたが、取りあえず、ホトトギスはまだ鳴いてません。今月中に聞けると思いますよ。最近よく聞こえるウグイスより鋭い声の鳥はコジュケイです。「チョットコイ」と聞きなします。キジの仲間でウズラより少し大きいのですが、見える所に出てくることは殆どありません。
前回の御意見
前回は、プリントを使って話を進めたので解りやすかった、と言う意見がありました。テキストをあっちこっち飛びますので、プリントを参考にして、教科書や参考書のどこのことなのか確認して下さい。そういえば、授業を聞いて、風景の扱いや同行者について等、通読したときに気がつかなかったことが多いことを認識したという人が多く、連休の間にもう一度読もう、と書いた人もいます。読んできましたか? シラバスに「注を含めて通読しておくこと」と書いて置いた意味が解ってきた頃だと思います。注もよく確かめながら読みましょう。それにしても、一読しただけで誰もが私と同じように気づいてしまったのでは教員をやれませんから、みんなが気づかないのは、今のところ仕方ないのです。どういうところに注意して読めばいいのか、と言うことを体得し、他の作品などに応用できるようにすることが大事です。
さて、先週は、古典文学では「旅」という物が都人が都を思う気持ちを表現するものとしてあると言うこと、歌枕の伝統によって風景が詠まれた事、等を話した上で、『おくのほそ道』では、風景がどのように描かれているのか、と言うことを、順を追って見てみました。
「都中心」と言うことには納得したり驚いたり、と言うところですが、地方を蔑視しながらなぜ旅をするのか、「原住民は自然と一緒」はすごい、田舎の人は旅をして故郷を思わないのか、と言う感想、それに、都・鄙等の対になる表現が好きだ、と言う意見もありました。「蔑視」という言葉が適当かどうか判りませんが、[都:鄙]と言う関係の中で、都にないもの自然や風景を求めて旅をするのは不思議なことではないと思いますが……。もう一つ、田舎の人が旅をして歌や句を詠む時代はもう少し先だ、と言う時代背景も頭に入れておきましょう。
歌枕の知識と現実の風景の違い、と言う問題は、修学旅行の京都と一人旅の京都の違いを連想した人もいて、かなり身近に感じられたようで、共感・親しみを感じた人、芭蕉も普通の人なんだという人もいますね。その上で、食い違いを指摘することに驚き、風景を言葉にするのは難しい、室の八島の書き方はいやな感じ、和歌で風景を想像するのは写真で想像するのと同じことなのか? 見たことのない風景について和歌で感動するのが不思議、現実の世界を批判しないのが気になる、白川の関の意味がよく解らない、伝承に意味があるのか、等、様々な疑問や意見が出てきました。
黙り込んでしまったりする芭蕉について弱い人間なのではないか、多重人格についてはよく解らない、病的な感じ、那須野の幻想については、天才的感性とおかしい人の紙一重と言う感想もありました。また、先週の授業を聞いた上で、風景を理想化しているのではないか、と言う意見がでたのには驚きましたが、「理想的」というのが「歌枕的」でなくなりつつあると言うところまで射程が届いていれば鋭い意見だと思います。ギャップを受け容れて新しい物を作ろうとしている、現実と歌枕の両方から風景を見ている、二つの世界をまたぐ旅人ではないか、心の中に感じていて、はっきりしなかった物を見たのかもしれない、と言うような深い指摘もあります。風景の描き方が「一様ではない」と言う私の意見に同感と言う意見もありました。その辺を考えながらもう少し進むと、もう一度自分たちは何を読んでいたのか、と言う問題に突き当たると思いますよ。ヒントは、「予」は芭蕉なのか、と言うことですかねぇ。
曾良や北枝が話題になったので同行者に興味を持った人もいますね。登場人物がどうやって造形されているのか、と言うことについてはあとで触れます。
その他、『おくのほそ道』には隠された主題があるようだ、花見と言えば桜のこと、と言う形で歌枕的な伝統は今も残っている、と言う指摘、それから『芭蕉魔星陣』(講談社文庫)と言う本が『おくのほそ道』を題材にしていると言う情報もありました。『おくのほそ道』を題材にした小説を集めてみるのも面白そうですね。
それから、歌枕と現実の違いを、今比べられる所はないか、と言う質問もありました。取りあえず歌枕に行ってみましょう。静岡近郊だと、小夜の中山・蔦の細道(宇津山)・木枯しの森・三保の松原(清見潟・有度浜)・田子の浦・富士あたりですねぇ。『歌枕歌ことば辞典』(片桐洋一・角川小辞典・83,12 *最近改訂版が出た)等を参考にしてみて下さい。図書館にあります。歌枕が言葉そのものでしかないことが理解できると思います。希望があれば小規模なツアーをやってもいいですよ。
それから、意見の中に「歌人」「歌」と言う言葉が時々出てきますが、芭蕉の場合は俳諧師であり、作る物は俳諧(俳句)です。数えるときは「首」ではなく「句」です。とても基本的なことですので誤解していた人は改めましょう。
もう一つ、先週配布した資料の基になった『おくのほそ道』のテキストファイルは、以下の所からダウンロードできます。情報処理語学文学研究会(JALLC)関係です。
http://kuzan.f-edu.fukui-u.ac.jp/jal_ftp2.htm#hoso&mas
*連休中に、前に触れた本を購入したので紹介しておきます。前に紹介した本と併せて、図書館に購入希望を出してください。
99,11『芭蕉翁正筆奥の細道』村松友次 笠間書院
それから、もう一冊、解りやすくて面白い本がありました。ちょっとお薦めです。
99,9『俳句から見た俳諧−−子規にとって芭蕉とは何か−−』(神奈川大学評論ブックレット4) 福本一郎
お茶の水書房
その他にも、『おくのほそ道』がらみの紀行や写真集はかなり出ていますし、「真跡」関係の本もまだありますが、取り敢えず新しい情報はそれほどないな、と言うのが私の印象です。今の本は殆どが現代語訳付きだし、どのような絵や写真を使うのか、というのはとても興味深いので面白そうな本があったら買ってみたり、図書館に入れてもらったらいいと思いますよ。外国語訳についての本も新しいのが出てる見たいですね。
今週の話題
先週に続いて、歌枕探訪の様子を抽出し、歌枕の知識(和歌の伝統的な風景描写)と現実に見たものとの関係について検討します。先週「もぢ摺石」まで来ましたので、「佐藤庄司の旧跡」からですが、その前に、「遊行柳」について補足しておきます。引用した文献は以下の通りです。
73,2『謡曲集 下』日本古典文学大系 岩波書店
87,6『能・狂言事典』西野春雄・羽田昶 平凡社
前に少し触れましたが、もし、私が言うように、歌枕の描写に「変化」があるのだとしたら、なぜそのようなことが起こっているのだろうか、と言うことを考える必要があります。それが、「理想的」な配列で出てくるとしたら、尚のこと、偶然やドキュメンタリーからは遠ざからざるを得ません。そこまで考えた上で、次は、曾良について考えることにしましょう。
ところで、先週ちょっと触れた、「那須野」と対になる[迷い込む→異郷訪問<幻想?>→脱出]という場所がどこかわかりましたか?
前回の御意見
歌枕の扱いについては、高校の現代文で「あらまほしき自然」についてやったのを思い出した、歌枕は文学的に描かれる、素晴らしい風景は他にもある、新しく歌枕が生まれることはないのか、順番がよくできている、偶然にしては出来過ぎ、同じパターンがないのに驚き、芭蕉は歌枕を愛したと同時に憎んでいたかも、江戸時代でも昔のままではないことに驚き、風流を解さない地元の人が守ろうとする理由は何か、なぜ歌枕が必要だったのか、曾良も風景も自分の考えを表すための道具ではないか、等の意見や疑問がありました。それぞれに面白いテーマですね。自分で考えてレポートにしてみるとよいと思いますよ。研究書より深い講義だ、と持ち上げてくれた人もいてとても嬉しいのですが、私に引きずられて自分の考えや疑問を見失わないように、私の言葉を一つ一つ批判的に吟味して授業に向かってください。
関連して、「取捨しているのだから「予定調和的」なのはある意味当たり前なのかも知れない……ただ、それが、ガラス一枚ごしに私達が作品を見ているようには思われないから不思議だし、評価できる」と言うようなことを書いてくれた人がいるのですが、後半が少し解りにくいのでもう少し説明してくれると有り難いです。作り物っぽくないって事ですかね。
静岡に来て間がないので感動があるが、そのうち慣れてしまうと思うと淋しい、と言う人がいます。国宝展に行ったが千年前の物を見ても芭蕉ほど感動できなかったと言う人もいますね。歌枕はなぜあるか、と言う疑問とも関係してくるかも知れませんね。自殺の名所だと聞いた途端に怖くなるような、場所や物の持つ意味や内包する物語とか、そういう物の予備知識が実は感動の正体だったりするので。で、さて、太宰治も言うように、何も予備知識のない人でも富士山は美しいのか、純粋に風景に感動するという事はどう言うことなのか、てな事が問題になるわけですよ。静岡でずっと暮らしても、毎日新しい感動を持ち続けられれば、風景は当たり前ではなくなるし、自分にとっての名所(思い出の場所)は嫌でも増えていくと思いますよ。
もう一つの話題は、「遊行柳」を材料にした、能の構成についてでした。これは、難しかった、早すぎた等、苦情もありましたが、納得してくれた人もそれなりにいました。で、能を見てみたい、と言う人もいます。私個人としては、能や狂言は見るより読む方が好きです。かなり予備知識を入れておかないと辛いのではないか、と言う気がしますが、外国人でもかなり深く理解できてしまう人もいるらしいので、個人差がありそうです。試しに一度は見ておくべきでしょうねぇ。
能の話で、昔話にも似た型がある、と言う意見も複数ありました。いい線ですねぇ。そのうち昔話の話もでてきますよ。「予」が芭蕉を指さないと言うことがあり得るのか、と言う疑問を持った人、加右衛門との一体感を掘り進んで理解したいというひと、病気のことが気になる人もいますね。追々話していきますので、どう言うことなのか、自分なりの考えをまとめておいてください(私に言われてしまうと悔しいかも知れないので、先回りして、レポートにしてもいいですよ)。
その他、松はなぜ重要視されるのか、どれくらいの期間で書いたのか、と言った疑問、BSの『奥の細道』や『日本史が楽しい』(文春文庫・半藤一利)の後書きで嵐山光三郎が「柳の精」だと言っていると言った情報がありました。BSのはわたしも少し見ました。しばらく続きそうですね。
もう一つ、人に見せるために書いたのか、と言う疑問もありました。基本的に『おくのほそ道』はそういうものです。ただ、「人」の範囲が色々問題になります。ところで、絶対に人には見せないものなら虚構はないと思いますか? 例えば、そういう決意で、虚構を交えないで書こうと決めて書いた日記が、あとで発見されて、家族や親しい人が点検したら、虚構がある、と言うことはあり得ますね。それは記憶違いや認識違いと言うことで片づくのかどうか。事実と真実の違い、と言う言葉は便利だけれど、正確に定義付けできますか? 「真実は一つ」という命題そのものを疑うことから出直してみよう、と言うのが、私の授業の基本線です。
今週の話題
まだ、歌枕問題が続きます。先週、加右衛門との交流や「壷碑」での総括を見ましたので、それを経て「風景」がどのように語られるのか、と言うことを追いかけてみましょう。あとで改めて触れますが、松島を過ぎると再び曾良の登場場面やその他の人物についての記述も増えてきます。それぞれ、どういう意味があるのか、チェックしながら読み進めましょう。
ところで、前に配ったわたしの資料では、松島関係のあと、風景とはあまり関係ない部分が続くために「立石寺」「汐越の松」と飛んでしまいます。違和感を感じる人もいると思いますので、すこし寄り道もしながら話を進めましょう。お馴染みの平泉の場面についても、曾良との関連で触れるつもりですが、少し補足しておきます。
高館
*漢詩的、まとまり・完結性。
「夏草や兵ともか夢の跡」<夏草>の意味
「卯の花に兼房みゆる自毛かな」曽良(代作説)
*二つの句の質の違いをどう考えるか、曽良の句だから出来が悪いのか、芭蕉が代わりに作った句だからいいのか。「出来」「格」の問題なのか。
*象徴性・文脈との整合性←→見立て
*長歌と反歌。要約・総括と抄出・具体化、二つで一つ。
光堂
*人に守られて今もあるもの。
「五月雨の降りのこしてや光堂」
*平泉の章は二つの対照的な情景を描く。人事と自然、歳月のなかで変わり行くもの、変わらないもの。
*先週触れた、象潟の景観保存などについて書かれた本を紹介しておきます。
96,2『失われた景観 名所が語る江戸時代』長谷川成一 吉川弘文館
この授業はテストをやりませんので全14回ですから、今日で半分ですね。私としては、話したいことが沢山あるので少し焦り気味でしたが、案外余裕があるかも、と言う気もしています。
歌枕ツアーについて、「参加したい」という意志表示があったのは6人でした。これならもう一台で行けるので何とかなるかもなぁ。日程としては、7月14日で授業が終わるので、補講期間の17(月)〜19(水)あたりがいいですねぇ。このあたりで新たな希望や日程の都合などを書いて下さい。梅雨末期で危険かなぁ。
前回の御意見
歌枕については、ドラマの舞台などの話で歌枕的な物が身近になった、阿倍清明めぐりが流行っていることを連想した、確かに前は木枯しの森は自殺の名所だった、静岡にずっといるが、よそに行った友達と話すと新鮮な発見がある、三保に行ったが予備知識無しでは感動できなかった、景色に感動しているのではないのではないか、予備知識がないと新鮮な感動がある、本当の感動がある、歌枕の出来方に興味がある、歌枕について冷静に見なければと思った、等の意見がありました。また、オリジナルな表現という問題で、最初に表現した人について考えた人もいました。プリントにある3や4みたいなことをやってみたいと言う人、「全くオリジナルな表現」という物をたとえ不可能でも、敢えて目ざそうとするのが、詩人や芸術家たちだろうなと思った、というのはその通りですね。具体的に梨木香歩と言う人が風景などの表現が変わっている、と言う情報もあります。
風景との一体感、と言うことについては、難しかった、と言う意見もありました。留学生の一人は、東洋では自分を画の中に置いて自分の視点から風景を描くと言うことに、中国人として同感、と書いてくれました。東西の自然観の違いを考えた人もいます。ヨーロッパにはそういう表現はないのかと言う疑問、自然の中にある自分を描くのに自分の視点を伴う不自然さがあるという指摘、自分を含む景色を完成形とする発想は自分には出来ないと言う意見もあります。後ろに風景関係の参考文献をつけておきましたので、読んでみてください。『中国文学十二話』『描かれた日本の風景』あたりが、先週の話に直接関わります。
曾良の扱いの変化、虚構と言うことについても、先週かなり反響がありました。他の授業でも事実と虚構の問題をやっている、実際に生きている人の言葉や印象までいじるのはどうか、真実を伝えるためには虚構も必要、曾良は存在していないのではないか、芭蕉の曾良に対する評価はどうだったのか、曾良がかわいそうなど。
『おくのほそ道』はガイドブックのようなものだと思っていたが小説的だと思うようにな
ったと言う人、更に進めて、芭蕉が旅を始めるときから曾良をそのような役割において文章を作ろうとしていたと言うことになるのか……それなら旅の小説と根本は同じになる、と考えた人もいます。少し「成長」と云うことも話したので、「『おくのほそ道』が芭蕉の成長の物語とすると、『おくのほそ道』以前と以後では芭蕉自身の物の見方がどのような点で大きく変わっていくのか詳しく知りたい」と書いた人もいます。この辺りになると、虚構と事実、作品と実作者という問題が混乱してきていることが解りますね。『おくのほそ道』と言う作品の中で成長する主人公「予」が、芭蕉自身だと考えてしまうと、本文の中に現れる様々な出来事の配列などの意味が違ってきますね。芭蕉は、確かにこの旅を通して成長したのでしょうが、果たして、旅立ちの時にそれほど未熟者だったのかどうか。逆に前の人の意見のように全てを見通して、曾良の役割まで考えて旅立ったのだったら、成長はウソですね。芭蕉がどの時点で、こういう構想を獲得したのか、と言うことは、芭蕉自身の旅日記やもっと早い段階の草稿が出てこない限り調べようがないでしょう。それにしても、『おくのほそ道』以外の俳諧紀行文がありますので興味がある人はそれらと比較してみてください(第1回のプリントの参考文献にありますが、旺文社文庫が現代語訳付きで読みやすいです。参考書売場にあります)。
曾良の話で『ピアニシモ』が出てきて嬉しい、と言う人もいました。その時にも話しましたが、子供が成長する話は、昔話や小説の中に沢山あります。先週話したのは他に『ふたり』『オズの魔法使い』『スタンド・バイ・ミー』『ネバー・エンディング・ストーリー』『アルケミスト』ぐらいでしたかね。アーサー王やジークフリートの伝説もいいですし、『桃太郎』でもいいです。漫画でも、そういうものをいくつか読んでおいてください。私は読んでいないのですが『ハリーポッターと賢者の石』も、かなり関係ありそうですよ。それらに共通しているのは何か、と言うことを少し考えておいてください。もう大体話してしまっていますが。
その他、立石寺・石巻・平泉など、具体的な内容に関して、高校までの授業で読んだ記憶のある部分だったこともあって、色々細かい意見がありました。高校では旅立ちの次が平泉だったので曾良の意味づけは考えられなかった、「夏草や」の句がその時出来たのではないと言うのは衝撃、中高でも教えるべきではないか、「卯の花に」の解釈・位置づけについて、高校では対照(対)になっていると教わった、光堂の部分は騙される書き方だ、那須野と石巻のようにセットがあることが解ると作品が引き締まる、句の意味について考えることが欠けていた、平泉の部分の絵を描いた記憶がある、数字にどんな効果があるのか、石巻で芭蕉は旅人のままでいたかったのではないか、実際に地元の人は芭蕉のことをどう思ったのか、音を使う芭蕉の技量はすごい、など。確かに、高校までの授業では、全体を見通して読むことはしにくいですから、こういう読み方は難しいですね。でも、この授業でこういう読み方の有効性を認めてくれた人は、もしこれから先教員になったり、家庭教師などで触れることがあったら、思い出してくれると嬉しいです。多分これは『おくのほそ道』だけではなく、『枕草子』や『徒然草』など、部分しか読まない教材の多くに共通する問題でもあるのだと思いますよ。
さて、その他です。前の御意見にあった「ガラス一枚……」は、「フィルター越し」というのでOKと言うことでした。ありがとうございます。童門冬二の本を入手した人もいますね。学術書以外にも『おくのほそ道』関係の本は色々ありそうで、私の手元にも少しありますが、気が付いたら紹介してください。新書サイズのビジネス書の中に『おくのほそ道』関係の面白い本があるらしいんですよ。歌枕と枕詞(まくらことば)を混同している人がいますかね。どちらも広く云えば和歌の修辞法だし、地名を引き出す枕詞は歌枕と深い関係にあると思われます。事典などで調べてみてください。これでレポートでもいいですよ。
それから、今回の御意見の中に多かった誤字。「思いの外」、と言う意味の「いがい」は、「意外」です。「以外」ではありませんよ。同音異義語の間違いは、パソコン時代になって非常に増えているので、文字の意味を正確に知ることを心掛けましょう。
本日の話題
今日こそは、歌枕・風景関係を最後まで辿りきりましょう。最も大きな問題は、「汐越の松」をどう読むか、と言うことです。
参考文献追加
78,8 『中国文学十二話』奥野信太郎 NHKブックス75 日本放送出版協会
88,6 『日本近代文学の起源』柄谷行人 講談社文芸文庫 か−B1 (オリジナル初版は80年)
90,1 『日本風景論』加藤典洋 講談社
90,6 『日本の風景・西欧の風景 そして造形の時代』オギュスタン・ベルク 講談社現代新書 1007
93,4 『松と日本人』有岡利幸 人文書院
95,2 『描かれた日本の風景 −近世画家たちのまなざし−』静岡県立美術館
95,9 『日本風景論』志賀重昂 岩波文庫 青112-1 (オリジナル初版は1874年)
96,2 『表象空間の近代』 李孝徳 新曜社
96,9 『自然をうつす 東の山水画・西の風景画・水彩画』(岩波 近代日本の美術8)青木茂 岩波書店
97,6 『風景の成立 志賀重昂と『日本風景論』』 山本教彦・上田誉志美 海風社
97,6 『風景の誕生 イタリアの美しき里』 ピエーロ・カンポロージ 筑摩書房
98,6 『芭蕉の音風景』堀切実 ぺりかん社
*それから、8月12日(土)13:00から、グランシップで能楽鑑賞教室があるそうです。大学生は800円です。一昨日から発売しているようですので、問い合わせてみて下さい。
054-203-5714 静岡県文化財団(担当:佐野美代子)です。
静岡の遅い田植えもほぼ終了ですね。先週の金曜、日本平(舞台芸術公園)でホトトギスを聞きました。今日あたり聞こえますかねぇ。
さて、今週から、御意見帳が2枚目になります。枠上の該当する欄に学籍番号・氏名・授業科目名を記入し、二つ折りにして1枚目に挟んで両方とも提出してください。ホチキスなどでとめないこと。
ツアー希望者は2人増えて8人(チェックした物は赤ペンで印をしましたので、見落としがあればもう一度書いてください)。火曜日がダメ、と言う人がいますので、その辺で調整しましょう。
今日は、少し花と野菜の苗をもってきました。アサガオ・ユウガオ・フウセンカズラ・サルビア・オシロイバナ・フェンネル・ナス・トマト・トウガラシです。トウガラシは取り敢えず一つしかないので前に御意見帳に書いてくれた人が優先。あと、バジルと書いてくれた人はもう少しお待ちください。その他は、喧嘩にならない程度に一人で複数もっていってもよいです。持ち歩くのが大変な人は、2時20分頃か4時過ぎに研究室に取りに来ると言うことで、予約でも良いです。
前回の御意見
先週は何だかまとまりのない話になってしまい、解りにくかったと言う人もちらほらいました。申し訳ありません。風景については一応話し終わった感じですが、また曾良やその他の人物を追いながら何度も読み返していきますので追々解って貰えるのではないかと思います。短い作品なので、自分でも繰り返し本文を読み返してみてください。
曾良の扱いについて。曾良が道具とは思えない、深読みしすぎ、利用している、曾良が消える意味がよく解らない、実在したのだから分身ではない、曾良の存在感をもっと大きくしてもよかった、曾良じゃなくてもよかったのか、等の意見がありました。等栽についても、分身の役割の移り変わりと「予」の成長に関係がある、等栽が一番印象に残る、
等の意見があります。また、曾良と別れても北枝がいたことについて、曾良と別れて一人旅になったと教わったと言う人、一人の方がいいのにと言う人もいます。どうして先に行ったのか、曾良も有名人なら噂などはなかったのか、と言う疑問もありました。授業でも言いましたが曾良や等栽について、「分身」として考えてみようというのは私のオリジナルです(他の作品については色々あるのでそれを応用したのです。実在する人物を分身と位置づけることはルール違反ではありません。実際に投影ということはありますしね)。実在の曾良については研究書もありますのでチェックしてください。
等栽は対のどちらかではなく融合型だ、と言う指摘もあり、日常・非日常、芸術と実生活などについても興味を持ってもらえたものの、もう少し詳しく、と言う意見もありました。中庸がよいと言うことか、両方の生活をしたいというのは都合のいい話だ、完璧に日常を捨てることなく非日常の生活にも足を突っ込んでいるというのは理想的だ、日常に飽きたらず新しい物・非日常を求める気持ちを知りたい、日常生活に芸術は見つけられないのか、等
。更に、後半に死に関することが出てくることについて、【死の世界=非日常=芸術】とみて、芭蕉の目指す物はどっちなのか、と言う考え、別離の悲しみは句のためのよいスパイスだと言う指摘もあります。芸術とは何か、と言う問題はここで話すのは大きすぎますね。多分来年文学概論を担当しますのでそこで話す機会があると思います。芭蕉の時代の芸術観については補足しましょう。授業でも言いましたが、日常生活の中に芸術を見出していこうという運動が、民芸運動だったわけです。行ったことのない人は、是非一度芹沢美術館に行ってみてください。
成長の物語と分身については、「予」像の変化と言うことで一応納得してもらっているようです。『ピノキオ』『ハックルベリーにさよなら』成井豊(戯曲、漫画化きら)『深夜特急』沢木耕太郎なども例として挙げられました。
こうした私の考えについては納得した人もいますが、半信半疑という人が多そうです。で、芭蕉自身の旅の目的や意図について考えた人も多くいました。伝えたかったことを伝えるための演出は当然で、実際の旅と違うことでもよい、芭蕉は何をしたかったんだろうか、自分の旅を理想化したいのかなど。曾良が「道具」なのか、と言う問題もそうですが、わたし自身は芭蕉が個人的に作品全体を意識的に構成したのだ、と言っているわけではありません。作者という問題とも関係しますが、追々話していきます。例えば、世界中の神話や昔話にある分身の話は、誰かが意図的に創作したのかどうか、と言うような問題について考えてみる必要があると言うことです。
風景について、三峡の風景も詩とは違って感動が薄かった、観光によって荒らされる地元と言う問題は今でもある、三保の海には感動した、予備知識があっても感動した(裏切られなかった)のは竜安寺、と言った情報もありましたが、汐越の松の「一致」については、納得した人と今一という人と別れました。蓮如の歌と知っていても同じだったのか、と言う疑問もありますね。この辺は実際の芭蕉がどう考えていたのか、と考えるとかなり難しいですね。
その他、人物が出てくると親しみが涌く、女性が少ない、新古二道の問いかけに芭蕉は、どう答えたのか、殺生石は今でもあるか、数字は単なる遊びでもすごい、江戸時代の情報にびっくり、黄泉帰り、此岸・彼岸など、本筋と関係ない雑学が楽しい、『芭蕉論』難しかった、「モナ・リザ100の微笑展」も模写から創造へと言う芸術の流れを示していた、現代語訳が入手できない、等々。芭蕉は当時の最先端ですが、大石田の人の言う「新古」とは何か、が問題ですね。殺生石に入ったことがありませんし、これも誇張だと思いますが、温泉で硫黄ガスの出ているところです。
今週の話題
今週は、曾良以外の登場人物に就いてみてみます。曾良はその次です。長くなりますが、メモを追加します。
出会った人々
人物を人物としてみること。「人物」とは何か。
実在の芭蕉がこの旅で出会った人たちの全てが、この作品に登場するわけではない。作品の中に登場する人物は、従って、作品の中に位置づけられるだけの理由がある。それは、俳文芸に不可欠な挨拶と言う、作品外的な要因で説明できる場合もあるかも知れない。しかし、それだけでは説明できないし、人物との交流が、「事実」のままである保証はどこにもない。
こうした前提に立って、もう一度「予」が旅で出会ったり話題にしたりした人物を辿ってみると、風景の時と似たような問題があることに気づく。それは、「変化」であり、章段と章段の連想:対の関係である。その関係の推移から窺えるのは、「予」そのものの変化なのではないか。
仏五左衛門
*旅立って最初に出会う人物が、乞食巡礼のごとき主人公を救う仏の示現であるかと疑われること。観察し、理解すること。
農夫・かさね
*牧歌的風景の中にある農夫と小娘。馬に助けられての脱出。異界幻想・夢の道行。初々しい旅人である主人公。
*旅のあるべき姿は、遠く漢詩の世界の中にある。牧歌的な風景、優しい農夫、かわいい娘、道を教える馬。そういった情景は、しかし幻想物語のフレームの中でしか実現されない。旅に出たばかりの主人公は、さっそくそのような風景の中に迷い込んでしまう。
*例えば「もぢ摺石」と比べてみれば明らかになる視点の変換。ここで描かれている「風景」は都人が幻想する美しい旅情であって、鄙びた人物は幻想の対象としてしか機能しない。これに対して「もぢ摺石」では、定住する人々の実感を共有する。「おのこ」でも「野夫」でもない共感できる人が存在する。更に石巻での拒絶を思い出す必要がある。
浄坊寺
*家族・血縁・定住する生活。芭蕉の欠落部分。
*引き留める力としての接待:家・家族・血縁的連帯・定住する人の営み。旅の入り口にあるもうひとつの可能性。まぼろしの巷。
*旅人、一所不住の人となること。旅の入口で「旅人」になれない主人公。乗り越えること。
*佛頂和尚山居跡、にぎやかな団体行動→突然の静寂。そこでは一人だった? それとも集団が幻なのか。
等窮(栗斎)
*白川以北の緊張。過剰な反応。理想化された人物たち。「さすが」「かくや」。
加右衛門
*「風流のしれ者」。白川以降の歌枕探訪で獲得された境地の象徴。
*語り手の明確でない案内(道中)記。
*画図を辿って「奥の細道」に行くこと。
松島の隠者
*自然の中で日常生活から脱した生活をする人々。「なつかし」。自然と同化する自分。「あやしきまで妙なる心地」。これが理想なのか。
石巻の人々
*都市に定住する人たちから受け入れられない旅人。旅人は異人と化している。俳諧の理想は……?
清風
*この前に平泉・山刀切峠を通過。
*透明な視線。身構えない、ゆったりした気分。黒羽との違い。多作。
*立石寺の「発見」
大石田の人々
*「ふみまよふ」誹諧師たちの「みちしるべ」する人になること。
*「このたびの風流爰に至れり」
図司左吉
長山重行・渕庵不玉
低耳
*「普通の」旅日記の有り様。それ以上でもそれ以下でもない人たち。挨拶?
遊女
*病の後。救済者としての予。別れる。「曾良にかたれば書とゞめ侍る」。
何処・一笑(故人)
久米之助(貞室・貞徳)
*故人・過去への視線。出会いよりも別れに筆を割く後半の傾向。
*死の世界への接近。
*曾良の病、離別。
全昌寺の「僧とも」
天竜寺長老
*寺、或いは僧侶、更にいえば仏の扱いの変化。
北枝
*送られる。別れ。
*ここまで来て、実は金沢から道連れが居たこと、つまり曽良と別れたあと一人旅ではなかったことが明かされる。翌日には福井で等栽と逢い、敦賀で路通に迎えられるまで同道することになる。北枝については、狙いが明らかな様にも思えるが、等栽についても、曽良に代わる「同行」としての意味を考えてみる必要があるだろう。
*曾良・北枝、二つの別れの位相の違いは、簡単に言ってしまえば、見送る別れと見送られる別れである。しかし、そこには更に別の要素が含まれている。曾良は同行者として異界を旅し続けて病に倒れ、先に日常世界に戻る(そう考えれば、曾良がそこに残ることは、彼が「不帰の人」になることを意味しただろう)。その分身喪失の状態の中に「汐越の松」はあった。北枝は一笑追善の金沢から同行する彼岸の人。「予」はその人を置いて此岸に戻る。最後の別れはつまり異界の旅の終わりを明示することになる。
等栽
*獲得された新しい境地。俳諧性。
*「いかに老さらぼひて有にや将死けるにやと人に尋侍ればいまだ存命して」
*「其日のあらまし、等栽に筆をとらせて寺に残す」
*とにかくこのあたりは等栽の登場場面が目に付く。この人のキャラクターは、今までの登場人物とはかなり違った、おかしみのある、飄々とした人物で、まさに「市中の隠士」然としている。俳諧が、あるいは芭蕉の旅がめざすのは、現実を超越した異人になって非日常の「文学」をすることではなく、そうした境界を無化してしまう所にある。従って、こちら側への越境という概念も無化されてしまう。自己のうちに彼此を一体化する体験。旅は終わっているし、続いている。
露通・門人たち・曾良
*蘇生の者。再会した曾良は何者か。
★曽良は、向こう側の世界に引きずり込まれる直前で、二項対立に堪え切れなくなって発病し、こちら側に生還する。
人物
反復される越境(異郷訪問の構図)
曾良の意味
瑞岩寺
歴史的な説明のみ
「彼見仏聖の寺はいつくにやとしたはる」行った、行かない?
[ひとつの連なりの終わり]
石巻
「平和泉と心さし」、<歌枕通過、「路ふみたかえて」(→那須野)、宿が無い、「又しらぬ道まよひ行」、歌枕通過>、道行文に挟まれた場所、一宿、平泉へ
石巻:異空間としての繁華な都市。旅の中にあって現実と幻、日常と非日常は逆転している。
尿前の関
出羽の国(日本海側)へ:旅の折返点、
土地の人との異和、風雨。「よしなき山中」
大きな越境への予感、障害。
「蚤虱馬の尿する枕もと」
越境
あるしの云⇒危機の予感→恐怖・結果的には無事であること→恐怖の回想。
尾花沢
最上川
舟による移動。
「五月雨をあつめて早し最上川」
歌枕としての最上川。実感としての最上川。
出羽三山
象潟
6月になりました。先週の授業のあと、夕方5時頃から大学の周りでホトトギスが鳴き出しました。翌日も一時間目に授業があったのですが、その時は授業中にもよく聞こえましたから、今日もちょっと期待できるかも知れません(金曜日の夜11時過ぎに私の家でも聞きました)。
先週ナスの苗を「予約」してもっていかなかった人がいますね。もってきましたのであとで取りに来てください。バジル(今のところ1本)もあります。簡単な物を育ててみたい、と言う人もいます。オシロイバナやサルビアなら、日当たりさえよければ大丈夫でしょう。そういえば、前にあげた種がすくすく育っている、と言う情報もあり、ほっとしています。食べられてしまった物もあるようですが。
歌枕ツアーの概要について少し思案中です。今回は、「歌枕」ということがテーマなので小夜の中山を中心に考えています。最近バイパスで道が変わってしまいましたが、周辺整備も進んでいます。たくさんの歌碑・句碑があるところで「変わるもの・変わらないもの」が実感できるのではないかと思います。
行程は、今のところ、静大を9時前頃出発(私としてはもう少し早く出たい)、掛川城の美術館で浮世絵と江戸時代の旅の道具関係の展覧会(6,17〜7,23)を見て、小夜の中山でお昼(弁当持参・または茶店利用)、余裕があれば大井川の川越遺跡に行って、蔦の細道、柴屋寺(連歌と縁の深いお寺)をみて解散、希望者は丁字屋でとろろ汁(\1500ぐらい)を食べて帰る、という感じですかね。お金がかかるのは美術館ぐらいなので、食費以外は殆ど必要ありません(ガソリン代や有料道路代を割り勘にしてもらえればそれに越したことはありませんが……。それでも一人\1000ぐらいでしょう)。
先週もう一人希望者が増えたので9人ですが、予定が曖昧な人もいるようです。火曜日ダメという人がいて、美術館が月曜休館なので、7月19日(水)と言うことで、教育学部の杉田先生(江戸時代の国学や和歌など雅文芸を専門にしている人)も参加してくださる(自動車を出してくれる)そうです。強引ですが、日程はこれで決定です。まだしばらく間がありますので、予定をよく考えて、参加したい人はもう一度御意見帳に記入してください(今まで書いてない人でもよいですし、書いた人でもいけなくなってしまった人は必ずそのことを書いてください)。なお、参加する人は、希望する集合場所(静大周辺・掛川駅・その他)も書いてください。
前回の御意見
先週は、「予」が旅の途中であった人たちがどのように描かれているか、という話の前半でした。低姿勢から風格をもつようになる、等、「変化」が見られると言うこと一応了解した上で(変化ということそのものが解らなかったという人もいます。私の進め方が強引なのでしょうか)、ただの旅日記ではない、小説というジャンルに入れてもよい、昔話のパターンに合わせて細工した、意図的だがスムーズで紀行文としてはよくできている、ストーリーを作る上で一番簡単なものだから意識的にやっているとは思えない、「ドラゴンクエスト」の出会いと成長に似ている、人物は芭蕉の成長を示す物差し、これまでの生涯を振り返って予に重ねた縮小版、「予」が「俳人」になる、旅人としての成長記、人間の一生の比喩、と言った位置づけを考えた人もいます。最初に冷たくされるのが物語のパターンなのに「仏」が出るのが面白い、と言う指摘もあります。また、挨拶、感謝の気持ちがある、と言う俳諧の特質について、驚いた人もいるようです。相変わらず、「意図的」かどうかと言うところでは意見が分かれるようです個々の人間については、五左衛門が日光山の化身と言う説に納得、川端の小説でも語り手と人物が一体になることがある、登場した人物は現実の人かどうか、等の感想がありました。一応実在の人物ですが、若干名前が変えられていることが判っています。また、『おくのほそ道』はどんな人を対象に書いたのか、俳諧とは何か、旅とは何かを考えたと言う人もいますね。 浄坊寺での長逗留に関しては、家族に憧れがあるのではないのか、ふるさととの関係が解らなかった、定住しているのはいけないことなのか、旅に生きる身として血縁的連帯を故意に築かなかったのではないか、突然の静寂にどういう意味があるのか、白川の関(白川の関は福島県です)までの長さに納得、等の意見や疑問が出てきました。芭蕉の生い立ちに興味をもった、と言う人もいます。興味が薄れない内に伝記などを読んでみてください。芭蕉にとって家族やふるさとがどういう物だったのか、と言うテーマでレポートしてくれると有り難いですね。それから、民家に記録が残っていないのか、遊女の所が気になるので次が楽しみと言う人もいますね。旅の途中で書き残された物などの調査は既にかなりされています。現在の研究はそれらも参考にした上で行われています。図書館で『詳考奥の細道』を見てみてください。関連資料もかなり紹介されています。この授業は、そうした資料によって明らかにされる「事実」とは別の、作品に書かれた「事実」が何を語るのか、と言う問題を扱っているわけです。作品には、事実だとも虚構だとも書いてないわけですが、こういう作品は「事実」が書いてあると考えるのが常識的だし、芭蕉自身作り話を書く意識はなかったんじゃないか、と言うのが私の読み方なんですけどね。
越境というテーマは、後でまた触れます。あっち側の世界への恐れはないのか、「突然来た「自然」」とはどういうことか、など関連する意見や疑問はそのまま抱えておいてください。
その他、モナリザ展を見に行った人から、芸術とは思えない、パロディも芸術であると言える根拠を知りたい、何もないところから出発するのが芸術ではないか、芸術論についての話もして欲しい、と言う意見がありました。日本の古典文学には、本歌取りをはじめとする様々な引用・再解釈の表現がありますし、現代の美術や音楽ではかなり多用されています。それらを芸術として認めるかどうかは、立場の別れるところだと思いますが、その前に、「何もないところ」を想定できるのかどうかを考える必要がありそうです。前に、歌枕に束縛されない表現と言うことでも似たようなことが問題になりましたが、新しい表現は、肯定的であれ否定的であれ、古い表現の模倣としてしか存在し得ないのではないか、ということです(一番最初をどう考えるか、と言う問題は勿論残りますが)。模倣は、表現者の解釈の表現としてどのようにもなり得るわけで、そうして表現された新しいものとオリジナルとの差異の在り様そのものが動的な芸術として立ち上がってくるのでしょう。この辺りの議論は、文学史や文学概論などで少し話す機会がありますので、来年度以降の楽しみにしておいてください。社会学科の上利先生の授業なども参考になると思いますよ。
今週の話題
先週の続きです。人物像の変容についてのまとめもします。
日本海側に出てからの行程は非常に速い、と言うか、あっさりしているのが一つの特徴です。なぜそうなのか、と言うことも考えてみる必要がありそうですね。いろんな事が重なってくるのでややこしいようですが、曾良だけでなく、芭蕉の病気にも注意を払っておきましょう。
梅雨に入りました。これからしばらく通学も大変ですね。ホトトギスは、その後聞くことが出来ましたかねぇ。私は自宅でも聞いてるんですが。コジュケイの声をサークル等で聞いた、と言う人もいますね。そういえば、静岡で蛍が見られる場所は、と言う質問がありました。県立図書館の手前から山に入ったフライパンという食堂の近くあたりで見られるそうですよ(私は行ってませんが)。私が見たことがあるのは、興津川の支流の上流(大河内だったかな)です。結構すごかったですよ。あとはちょっと遠くて柿田川湧水とか。人工的に育てているのは、安倍川河口近くの中島浄水場とか(ここは蛍祭の時だけ入れるらしい)。皆さんも情報があったら教えてください。
苗は順調でしょうか。ローズマリーやタイム、シソなどの希望もあるようなので、株を増やそうと思いますが、天気が悪くて作業が進みません。しばらくお待ちを。
人数を確定したいので、歌枕ツアー参加希望者は改めて申し込んでください。
前回の御意見
さて、先週は駆け足で最後まで人物チェックをしました。等栽や大垣について、早すぎた、と言う意見もありましたので、ゆっくりおさらいしましょう。
人物については、遊女と実際にあったのだと思う、等栽の扱いが細かいのは理想だからか、等栽のキャラクターに納得した、「予」以外の人は「予」を成長させる道具のようだ、と言った意見がありました。遊女の場面の「ねる……ねいる」のフレームについては、虚構が許される場面とそうでない場面を意識しているのか、と言う疑問もありました。この指摘は重要ですね。そういうフレームを設定しないところは虚構ではないのか、と言うことにもなりかねませんからねぇ。もう少しうまく説明できるように考えてみます。
今回反響が多かったのは、事実通りに書かれていることにも注意を払うべきだ、と言うことでした。たいしたことが書いてない友達の手紙にも深い意味があるのかもしれない、と言う連想は、多分その通りでしょうね。本人にも気づかない意味があるのかもしれません。
もう一つは、病気の扱いでした。旅人が病気になるというのはよくある、病気の意味、芭蕉の病気は何か、それが作品に影響しているか、曾良の病については、なるほどと思ったというひともいますが、曾良の病の理由が解らない、曾良は付き添い無しで長島に向かうから病気ではないだろう、と言った疑問も出ています。付き添いが居ないとはどこにも書いてないと思いますが……。
それから、異界や死の意識の問題もありますね。この話はまたあとでしますが、なぜ死なのか、死を意識することが大人、東北が異界として意識されているのがすごい、他の作品ではどうか、現実世界との別れ・異界との別れ描かれていることに感動、彼岸此岸を意識して再読する必要を感じた、など。もっと昔ならともかく、当時の人々にとって東北そのものが異界だったわけではないと思いますが、旅という非日常性と言うことも考える必要がありますね。
越境との関係で、探求の物語や通過儀礼について少し触れたことについて、帰りが楽になる話は確かによくある、乗り越えてしまえばあってなきがごとしだ、紀行文と言えるのか、と言う指摘に加え、オウムを出すのは不適切だ、と言う批判もありました。称讃したわけではなくて、新興宗教がそういう普遍的な物を利用しているということについて話したまでです。他の授業では、「天声」についても話してますよ。差別問題や天皇制、神の国など、難しい問題は色々ありますが、扱い方に注意が必要な問題だと考えているので、私は、適切と考えるやり方でそれらに触れることは憚りません。
次に、引用の関係。何もないところから生み出せるかという疑問がある、『源氏物語』の引用が多いのは、恋愛・無常観・俗っぽさ等に通じるところがあるからではないか、引用が多いのは教養ある文化人向けのためか、知らない部分の引用だと面白さが解らないが、等栽の所は「夕顔」の場面を知っているので解る、古典引用の方法は、松本人志の俗っぽさに通じる、音楽の引用と似ている、など。私が言ったビゼーっぽい曲について、ダ・バンプの曲が「アルルの女」に似ている、書いてくれた人がいます。それですよ。似てますよねぇ。現代音楽の様々なあり方(何も演奏しない演奏とか、ジョン・ケージの仕事とか)についての情報や、上利先生の授業は目から鱗の連続だ、と言う情報もあります。現代音楽と言えば、最近はフィリップ・グラスもポピュラーになってるし、芸術論に興味のある人は是非。
こういういろんな問題が出てくると、結局、虚構、と言う問題に突き当たります。それが意図的かどうか、どうしてウソを書く必要があったのか、「文学においては、事実であることは、まったくどうでもいいことなんだと思った」と言う意見もありました。私は、「どうでもいい」のではなくて、「事実であること」そのものが大問題なのだ、と言うことを言いたいのですよ。前に、『曾良旅日記』は本当だと言う証拠はあるのか、と言う質問がありましたが、まさにそこが原点なわけです。どんなに資料を積み上げても、「たった一つの事実」には辿り着けないのではないか、だとすれば、事実はどこにあるのか、という問題を、言葉・記憶・物語と言った要素を交えながら考えるのが、目下の私のテーマなのです(と言うわけで「事実かどうか」はある意味どうでもいいのですが)。
その他。太平洋と日本海の対比は、風土的にも対応している、『芭蕉、旅へ』を読み始めた、義経の話が気になる、冷たいわけではなく、他人の運命を変えないと言うことだろうが、人の世話になっているはずだし、そういう出会いにも意味がある、旅は永遠に続くのか、等々。義経の話は『義経千本桜』と言う浄瑠璃です。ちゃんと読む気があったら新日本古典文学大系の『竹田出雲集』(図書館にあります)を読んでください。簡単に済ませたかったら、文学事典の類で粗筋を見てください。
それから、今さらですが3回目のマスにチェックしてあるのは、宿題を提出した印です。
今週の話題
今週は、先週のまとめをして、いよいよ曾良ですね。またメモを配ります。今回は、去年発表した短い論文も配ります。異郷訪問・越境という問題も同時に考えながら進めましょう。
曾良とは何か
室の八島での唐突な出現、日光での紹介、山中温泉での急な別離、大垣での再会。一方で、主人公の口を閉ざす場面での饒舌(少なからぬ代作によって迄の)。少なくとも作品に見えるレベルでは、心細いひとりの旅人の前に、境界で出現し、異界の旅を共にして反対の境界でまた一旦消える。まるで「千本桜」の狐忠信のように。
それは、主人公が背負い続けた「影」か。あるいは「牛」か。いずれにしても、主人公の代弁者であり、案内者であり、ある時は幻を共有する共犯者でさえあったその人は、主人公が、世界と一体になろうというその時に消えて、こちらの世界の普通の人に戻っている。
それは、主人公の分裂した自我の(分裂状態のときにのみ見える)投影ということになろうか。
1 室の八島
*神社の縁起・歌枕の知識と現実。出発直後のつまづき、分裂。
2 黒髪山
*紹介。「同行」=二人の関係。
3 那須原
*幻の証人
4 白川関
*歌枕のパワー、代理人としての役割。
5 松島
*「口を閉じ」る「予」との対比としての。肯定的「沈黙」
6 高館
*二つの反歌、要約と個別・具体化。交響。
7 尾花沢
*四句一連。合成による交響。
8 出羽三山
*同上。尾花沢以降の多作傾向の中で、幸福な響き合いが続く。
9 象潟
*芭蕉2、曽良2、低耳1。松島との対。末の松山との対。表現すること。
病
10 市振
*証人。室の八島との対。「語る曽良」と、「曽良に語る」
一笑追善
四句
11 山中温泉
*曽良の「病」。分離。「書付」を消すこと。
12 全晶寺
*姿なし、句だけ存在。距離の確認?
*「金沢の北枝」
*等栽(福井)「市中の隠士」飄逸。
13 大垣
*再会する。「蘇生の者」は誰か。
『おくのほそ道』「汐越の松」 小二田 誠二
越前の境、吉崎の入江を舟に棹して汐越の松を尋ぬ。
終宵嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松 西行
此一首にて数景尽たり。もし一辧を加るものは、無用の指を立るがごとし。
『おくのほそ道』も終盤に近いこの場面で、主人公は、西行作という(蓮如の作とも伝えられたらしいが実作者は不明。当時、西行作という伝承もあったらしい)古歌を出して風景を語らない。この歌で全てが語り尽くされてているというのである。ここには妙な歪みがある。芭蕉はこの歌が西行作でないと知っていても同じ事を書いたろうか、と考えると、多分そういうことにはならなかったろう事は想像に難くない。一方、この旅を通じて、「此一首にて数景尽たり」と言いうる状況はここにしかなかったのか、或いは、この歌がまさにそう評価できるのか、と考えると、やはり、そうでもないのではないか、と思わざるを得ない。事実この歌についての評価は現在でもそう高くはない。これはどういうことなのだろうか。
従来、この部分の解釈のほとんどは、芭蕉の西行への傾倒ぶりを顕わす事を指摘して多くを語らず、「軽いつなぎ」「遣句的」と評するのが一般的である。旅の主要なドラマは既に過ぎ、もはや帰路であって、大きな意味は読み取られていないようである。しかし、ここに書かれていることは、この旅のキーワードそのものではなかったか。古歌と眼前の風景。主人公が、特に旅の前半で苦しみ、格闘してきた歌枕の問題が、いとも簡単に乗り越えられていることの意味を考えてみる価値はあるのではなかろうか。実際、この部分について「すでに歌枕との対決の姿勢が逆転しているのではなかろうか」(上野洋三『影印 奥の細道 付 参考図集』(和泉書院、一九八〇。頭注)と述べている例もある。
本稿は、上野氏がこの本の注釈で展開した「歌枕との対決」の諸相や曾良の登退場についての議論に示唆される形で、研究史の文脈を些か逸脱しながら『おくのほそ道』という作品を読み直してみようと言う試みである。
○
この問題を考える時、重要なヒントになるのは、曾良がそこにいない、と言うことである。この旅の同行者であった曾良とは三日ほど前に山中温泉で別れている。これは、『曾良旅日記』によっても知りうる事実である。この事は何を意味しているのだろうか。意味、事実の意味。この作品における曾良の行動、或いは出没の意味について考える場合、実在の曾良がなぜそのような行動をしていたのか、と言う議論が一方にある。この場面で言えば、いつから体調を崩したのか、なぜとどまって養生せず先行したのか等々。しかし、ここで考えなければならないのは、そういう作品外的な要因としての意味ではなく、作品内の登場人物として、ここで消える理由である。事実なのだから穿鑿する必要はない、と言うほど簡単な問題ではない。芭蕉はこの作品を通して、何度も「事実」を曲げて表現してきた。曾良についても、そもそも、室の八島に至るまで、文面からは二人旅だなどとは判らない書きようなのだ。そのような、つまり事実に基づかない描写について、なぜ虚構という手段を用いたのか、という問題設定は解りやすい。しかし、事実通り書かれている場所も同等に検証される必要がある。作品そのものの存在にとって、その記述が事実か否かということは問題ではない。実際に在ったことからの距離を穿鑿することなく、この部分を考え直してみる必要がある。
○
登場人物としての曾良が、作品中のどの様な場所に現れるのか、と言うことについては、今までにも様々な指摘がある。例えば室の八島で現れるのは、歌枕の知識と現実の風景のギャップに本人は口を閉ざし、神道家でもあった曾良の口をかりて説明したのである云々。これは傾聴に値する。その他の場所でも曾良の登場する箇所を見ていくと、白川の関や松島など、歌枕訪問で主人公が黙り込んでいる場面や、那須野のような幻想的な場面が、特に前半に多いことが判る。そして、高館で曾良と主人公の句が響き合う状況が現れ、後半では主人公の多作に圧されて行く。細かい検証を抜きに乱暴な見通しを述べてしまえば、『おくのほそ道』における曾良の出現と消滅は、歌枕探訪を中心とする俳諧修行の中で、主人公が、知識と現実・雅と俗・旅人と定住者、といった対立の中で分裂し、やがて統合されていく過程と連動している。つまり、曾良は、成長途上にある主人公の分身であると言うことになる。
「分身」と言う考え方は唐突かもしれない。しかし、遍歴の物語の同行者は、少なからず主人公の分身と言う性格を与えられるものである。分身は主人公の潜在的な能力の一端や、隠された内面を映し出す鏡になる。例えばドロシーという少女は、迷い込んだオズという国で、欠如を持った三人の道連れに出会う。三人は旅の途中で、足りないと思われていた能力の存在を自分の内側に発見してゆき、最後にドロシー自身もそれらの力を獲得し、一段の成長を遂げて家に帰ることになる。かかし・ブリキ男・ライオンは、未熟な少女ドロシーの一面を分担する分身である。彼等の足りない(と思われていた)ところは、少女ドロシーのそれでもある。それらの能力は実は本人の中に在る。それを発見できれば、旅は終わり、分身は消える。
『オズの魔法使い』は創作童話であるが、昔話の継承者として意識的に作られている。それに対して『おくのほそ道』と言う作品は事実に基づく紀行文だから曾良の性格は実在の曾良に帰属する、という考え方もあるだろうが、ここでは採らない。芭蕉が、このような、旅の物語の道連れという問題について意識的であったかどうかも問う必要はない。方法ではなく、事実でもなく、語り尽くされた言葉を敢えて使うなら、それが「旅の真実」だからである。旅は、「自分探し」の遍歴である。『おくのほそ道』の旅は、心の内奥の旅でもあった。
主人公は、はじめ、旅や歌枕に関して雅やかな理想を抱いて旅に出る。そして、受け容れ難い現実に直面したとき、曾良という分身にそれを預けて沈黙する。白川の関以降、歌枕を巡りながら、これらの矛盾を自己の中で解決し、やがて加右衛門に地図を与えられ(この地図に導かれて「おくの細道」に行くのは象徴的である)、松島では自然風景の中にある自分を観じ、立石寺では名所・歌枕から解放され、無名性の中で風景を詠むに至る(初案「山寺や」を「閑さや」に改めたのもまた象徴的といわねばなるまい)。斯くしてこの旅の前半は、古典的伝統の文脈と眼前の風景とを、主人公が内面において折り合いをつけていく過程の物語であった。その後宗教的な聖地を越えて、曾良と芭蕉の関係は交響的になり、暫く調和のとれた状態が続く。しかし、分身は、やがて消えなければならない。分身が存在できるのは、主人公が遍歴する異郷の中だけだからである。『ピアニシモ』で透がヒカルを消したように、主人公は曾良を消さなければならない。消すことによって、透が社会を受け容れていくように、主人公は、在るがままの風景と古歌とを、矛盾なく受け容れて日常の世界に帰還する事が出来るのである。斯くして曾良は腹を病むに至る。
○
話を元に戻そう。「汐越の松」を訪れたとき、曾良は居なかった。この段には曾良・北枝と離別が連続することを避ける意味もある、という指摘が既にある。即ち、実際にはこのとき主人公は金沢の北枝を伴っており、一人旅でなかったことは、その後を読めば判る。しかし、またしてもそのことは初めてここを読んだ人には判らないように書かれている。同伴者、つまり分身の居ない場所で、西行の歌とともに風景に対峙している。そして、その二つには全く矛盾も過不足もないと言い切るのである。主人公は、明らかに新しい境地に至っている。この短い章段は、そう言う意味で非常に重要な位置を占めるといわねばならない。
主人公が長く苦しい旅の末に獲得した境地は、事実を見極める目を持って写生に徹し、歌枕や本意本情の束縛から解放されることではないし、永遠の旅人として、異人になりきることでもない。雅と俗・漂泊と定住・伝統的知識と現実、そして不易と流行。そういった諸々の二項対立を相対化、或いは統合しうる境地であった。それは、北枝を引き継いで最後の同伴者となる市中の隠士、福井の等栽に象徴される姿であろう。
○
ここまで、『おくのほそ道』の終末に近い一節を材料に考察を進めてきた。荒削りな考えだが、曾良と言う同伴者を主人公の分身と捉える事で、この作品の読みの可能性が拡がってくれれば有り難い。旅の途中で出会った人々、例えば仏五左衛門、画工加右衛門等々についても、実像の研究とは別に、作品内での機能に着目する読み方がもっと増えていいように思う。事実に基づくフィクションを分析する場合に、ともすれば、事実部分と虚構部分の腑分けをして虚構の意味を考える、という形を取ることになりがちである。それは、例えば芭蕉研究の一つのありようとして、有効なものであることは疑い得ない。しかし、一方で、旅で出会った人たち全てを登場させるわけにいかない以上、登場人物をどの様に登退場させるかは、作者の裁量の範囲だったし、人物以外の設定や状況についても然りである。俳文芸であるから、もちろん、俳諧的な挨拶ということもあるだろうが、小説に無意味な登場人物や場面がないように、記述された事物には作品内に存在するだけの意味がある。
もう一歩踏み込もう。芭蕉が自覚的に行ったかどうか検証不可能な部分にまで解釈を踏み込むことで、作者の置かれている文化の中での旅という物の位相や、事実認識の在りようまでも照射する事が出来るだろう。断片的な事実が認識・記述されたとして、例えば『曾良旅日記』は紀行文たりえていない。作者によって認識された複数の事実と事実とが構造化されて、初めて紀行文なり歴史記述なりのテクストとして立ち上がるのである。「構造化する」ために必要なのは、事実なり物事なりの本質として文化が共有している認識の体系であり、因果の法則である。第三節で触れた「旅の真実」とは、つまりこれである。旅で体験した事実を材料として作品を構造化する時、芭蕉には我々が考えるような紀行ルポルタージュを選択する余地はなかった(実際の所我々は、また別の「あるべき旅」の型に縛られた紀行ルポルタージュを数知れず見せられているのだが)。事実はそのように認識され、そのように書かれたのである。
○
まとめに代えてすこし付言しておこう。この小考は、九八年度の日本文学協会部門別発表大会での口頭発表に基づくものである。その時には「実録(フィクション)としての『おくのほそ道』」という題目であった。私は、江戸時代の写本物の実録を主たる研究対象にしている。実録は噂のような物が書写されて伝承される歴史記述である。事実を標榜するが、現在の我々からすれば(或いは当時の知識人にとっても)、事実、或いは歴史記述とは言えない代物であり、「実録体小説」とも呼ばれている。しかし、実録の流通に関わった講釈師や諸々の書写者達は、個性あふれる荒唐無稽なストーリーを持つ小説を書こうと思っていたわけではない。事実のあるべき姿を、認識に随って記述したに過ぎないのだ。だからこそ、書き改められつつ書き継がれて来たのである。事実とはつまりそう言う認識であり、歴史とはそれらの構造物であった。ここまできて、もう一度『おくのほそ道』について考えてみれば、この作品のフィクション性と言う問題を、「文学性」と言う言葉に置き換えることは、あまり意味がないという事がはっきりと理解されるだろう。そもそもノンフィクションとフィクションの違いは自明ではない。我々の時代・文化から見て荒唐無稽と思えることが、かつて歴史記述であったことは枚挙にいとまがないし、今事実であると誰もが信じていることが、後にフィクションの烙印を押されることも充分あり得るのだ。通時的であれ共時的であれ、認識の体系が異なるとき、異なっているのは解釈ではなく、事実そのものであると言うことを確認しておく必要がある。そう言う意味で、この作品を実録(フィクション)と位置づけてみようと考えたのである。
もう一つ、付言しておかなければならないことがある。近代以前の風景描写の類型性という問題で必ずやり玉に挙げられるのが、『おくのほそ道』、中でも白川の関や松島である。これらの指摘は、この小考とリンクしなくもない。古典の伝統の中で、風景はそのように認識されるものであったから、そのように記述されたのであった。しかし、『おくのほそ道』と言う作品は、少なくともそうした呪縛と格闘する所まで、風景に対する認識が変化して来ている事を示しているのではなかろうか。例えば第三節で述べたように、立石寺は、歌枕ではない(現在は、芭蕉の句によって俳枕になっている)。予定外にそこを訪れることによって詠むことが出来たのが「閑さや」の句である。ここにはアノニマスな風景の描写への道が開かれている。そう言う位相を考え併せて白川の関の絢爛たる名所知識の織物と主人公の沈黙を見るならば、これを近世の詩人芭蕉の限界と取ることは出来なくなるにちがいない。近代以降の評論も、『おくのほそ道』という作品全体を通して、主人公が風景というものと必ずしも一律に対峙しているのではないことに着目して欲しいものである。
風景にしても、事実にしても、結局は認識があって記述され、実体化する。その認識は文化に依存している。しかし、そこにあるほころびに深く食い込んで新しい認識を産み出そうとする動きも絶えず存在する。『おくのほそ道』は、一方でそう言う認識の更新を見せながら、一方では事実認識の呪縛から抜けきれないでいる(結局は我々現代人もまた別のそれに囚われ続けているのだが)作品だと言うことが出来るだろう。
『日本文学』48ー8(1999,8)
申し訳有りません。三回目の所にあるはずのチェックがない人が結構いますね。なぜだか思い出せないのですが、受講している人は全員提出していることは確認していますので心配しないでください。
梅雨に入ったせいなのか、欠席が7人も居ました。この授業では初めてですね
。
ホトトギスネタが続きますが、先週も、月曜の午後や火曜には鳴いていたんですよ。残念だなぁ。ウグイスは鳴いてましたね。この時期に鳴くなんて……、と言う意見もありましたが、静岡では、かなり暑くなる頃まで鳴いています。私の実家(房総半島の南の方)でも、夏に鳴きますよ。
ツアーについて、説明が足りなくて申し訳有りません。日程は7月19日(水)で確定。コースは、静大周辺を9:00(集合し次第)スタート、東名高速を利用して、掛川城二の丸美術館(〜11:30)・日坂(〜12:00)・小夜の中山(15:00 弁当)・宇都谷(〜16:30)・丸子です。解散は、食事抜きなら5時ぐらいだと思います。
以上の計画で行きますので、参加希望者は、以下の中から希望する集合場所を選んでください。いけなくなりそうな人もいるようなので、新規の参加希望もOKです。最終的には最後の授業で確認しますが、なるべく早めにお願いします。
用宗駅(または安倍川駅)前(8:00) 静大正門前(8:45)
掛川駅(10:00) 掛川城二の丸美術館前(10:05)
蛍についてみんなから寄せられた情報。引佐郡にはたくさんいた、中島の下水処理場の蛍祭は七月頃、他の生き物が苦手な人は注意、柿田川によく行った、愛鷹青年の家は環境が変わった、藤枝の西方(山奥)、可睡斎に看板が出ている、ということで、子供の頃の記憶が多いようですから、今は保証できないかもしれませんね。
前回の御意見
先週は、私の短い論文なども紹介しながら、曾良についてのまとめに入りました。今まで半信半疑、と言う意見の多かった「分身」「成長」などの考えに対しても、そういう考え方も理解できる、と言う意見が出てきたようで嬉しく思います。哲学的、難しいと言う意見もありましたが、分身は面白いテーマ、自分探しは普遍的、成長には他人が必要、第二の存在があって成長が見えてくる、足りない物を発見する話の普遍性ということがすごい、紀行文と言うより芭蕉の成長日記のようだ、曾良が消えてこそ芭蕉は完全な人になれる、等栽はどこで分身の役を果たすのか、前半では曾良の方が上なのに距離が縮まる、と言う肯定的な意見と、曾良は成長しなかったのか、曾良自身はどうなのか、曾良の病気と芭蕉の病気はどう違うのか、日常に戻れば治る病気とはどういうことか、どこでどのように成長させたのか解らないと言った、疑問がでてきました。関連して話に出てきた、「影」や「牛」については今日話しますので、心配しないでください。事実が人によって異なると言うことの関連で書かれた「外の世界を見ているつもりでも実は自分の内面世界を見ているのかも知れない」と言う意見は、新しい表現も既存の知識を分割して新しい組み合わせを作るに過ぎないから、もとがあるはずだ、と言う意見などと重ねてみると、この授業全体のテーマとも関わって示唆的ですねぇ。
その、虚構については、曾良は虚構と現実を行き来する作品の方向を示唆する材料か、曾良を出すことで独りよがりが解消する、事実通りに書くところは、事実を貫いた方が面白いからではないか、と言った意見がありました。
また、『おくのほそ道』が完結しない終わり方であること、完結拒否については、完結しない物語が好きだ、日本的だ、などの意見があります。
虚構や分身の問題などでは、毎度の事ながら、どこまで意識しているのかは疑問、と言う意見がありますが、作者の意図でなく物語の中でそうなると言うことらしいが、なぜそうなるのか、どんな意味があるのかが解らない、と言う一歩進んだ疑問も出てきました。正直のところ、その答えは永久に解らないかも知れません。しかし、そういう現象が確かにあると言うことを取り敢えず確認し、答えを探し求めることは、おそらく、私たちに出来る「文学」を超えた人間探求の学問なんだろうと思うわけです。その意味では、「文学作品をジャンルに分けてしまうことによって、その作品の本質的な意味を考えるきっかけを読者が失うことにならないだろうか」と言う意見も、紀行文か小説か、と言った今までの意見を超えて文学の本質への問いかけになっているように思います。こういうテーマは、専門に関わり、卒業論文を書く頃になると、大きすぎて出来ない気がしてきてみんな遠ざかってしまいがちです。しかし、学部の卒業論文だからこそそういう大きなテーマについてあれこれ考える事が許されるようにも思います。来年度以降もそういう、挑発的な授業をしようと思っています。誰か乗ってきたら嬉しいですねぇ。
その他。芭蕉にとって旅とはなんだったのか、敦賀から大垣の経路が詳しく書かれている本はないか。『芭蕉、旅へ』は読みましたか? 細かい経路の実際などについては、『詳考 奥の細道』などを参考に調べてみてください。
更にその他。先週のイニシエーションの件で、オウムのイニシエーションは擬似的なものだ、と言う補足がありました。そうですよね。その通りなんですが、宗教体験というのは、「事実」そうでなくてもそう信じてしまえば「嘘」ではないと言うところが難しいですねぇ。★森総理は神の意志で総理になったと思ったのではないか、なるほど。★『永遠の仔』は、原作の方が気持ちをつかみやすい、この辺は来週以降の話題につながりますね。原作とその映像化などの問題については、いろいろ思い浮かぶこともあると思いますのでそれぞれ具体的な例を考えてみてください。その上で、なぜそういうことなのか、と言うことを考えると良いでしょう。例えば、『リング』の人物設定が大幅に変わったのはなぜか、とか。『GTO』の様に、アニメと実写があるものも面白いですね。
今週の話題
今週は先週の続きで、私の文章を読みます。その上で、関連する資料として、禅の「十牛図」や、心理学・民話学などの考え方を紹介します。かなり哲学っぽい話ですが、案外納得しやすいと思いますよ。
ただし、これは、唯一の正解、と言うものではなく、解釈の一つの方法である、と言うことをしっかり認識して置いてください。それからもう一つ、分身や成長と言う見方に対して、具体的な実体を求める疑問があるのですが、これらは、象徴(抽象的な概念を感覚可能なものに比喩的な置き換えをして示すこと)だ、と言うことを理解してください。
参考文献追加
77,9『無意識の構造』河合隼雄 中公新書481
85,9『魔法昔話の起源』ウラジーミル・プロップ せりか書房
87,8『昔話の形態学』ウラジーミル・プロップ 白馬書房
90,9『ファンタジーの文法』ジャンニ・ロダーリ ちくま文庫(原本78,5)
92,11『十牛図』上山閑照・柳田聖山 ちくま文庫(原本82,3)
94,2『昔話の深層−−ユング心理学とグリム童話』河合隼雄 講談社+α文庫(原本77,10)
96,11『遍歴 約束の地を求めて』ウド・トゥウォルシュカ 青土社
先週平沢観音の近くと、興津川(中河内)に蛍を見に行ってみましたが、少ししかいませんでした。今週・来週あたり、いいかもしれませんね。行く人は、くれぐれも夜道には気をつけて。
ハーブは今増産中。そういえば、イチゴの株がどんどん増えているので、誰かもらってくれる人がいると有り難いです。ただし、新しい株なので、今年実が生るとは限りません。
前回の御意見
反応が大きかったのは、『十牛図』との関係。『おくのほそ道』が禅の悟りへの過程を踏襲している、と言う積極支持派から、象徴として類似を認める、牛を飼い慣らしたことで成長したことになるのか、禅の思想は消極的、図による解説は今の漫画より優れている、芭蕉はそのいわれなどもすべて考慮しているのか、どこが関係あるのか、という疑問まで、様々でした。重松先生の授業で触れた、京極夏彦の本に出てくる(彼については、「四谷怪談」がらみでも意見がありました。『嗤う伊右衛門』のお岩さんは最初から醜くないですか?)などの情報もあります。いずれにしても、難しいが興味がもてた、と言うことのようなので、是非入門的な本を読んでみて下さい。
授業で何度も言ったように、これが『おくのほそ道』を読み解くための全てではないし、故事来歴まで知らなくても全く構わないわけです。問題は、今日も触れるように、こうした考えが普遍的に存在しそうだ、と言うことなのですね。
鏡についても、なるほど、と言う人、『古事記』の読み方にも納得と言う人から、鏡で内面が見えるという過程が理解できないと言う人がいますし、分身・投影・成長と言った事柄は演劇でも多用される、と言った情報もあります。その上で、複数の同伴者と旅をするスタイルがどうやって確立したのかと言う問題設定や、文学には普遍的な何かがあるらしいとか、人間の無意識の層がつながっていると言う考えについて考察する必要があるわけです。それらを通して、『おくのほそ道』が事実とは異なるということに対する不満がうすれたり、曾良の役割に納得するとともに、別の作品や神話にも興味を広げ、ドラマなどの似たストーリーが必ずしもまねばかりではないと言うことに気づき、世の中に起こっている様々なことの解釈にも応用することを可能にしていけば、この授業の狙いは達成されたことになるわけです。
しかし、実際の所、先週の授業は、解り難いという意見がとても多くありました。説明も悪いのだろうとは思いますが、問題意識のもち方が根本的に違う人もいるように感じています。認識の更新、事実が異なる、という話などでは、はっきりと反応が分かれています。そこに現れているのが、まさに認識の更新のズレなのだと思うのですよ。禅を出したりするととても古い時代の認識の話をしているようで、科学の時代に遅れているように思う人もいるかも知れませんが、今問われているのは、むしろ、ギリシャ哲学以来の論理的な科学的思考の有効性の方なのです。今まで虚構だったことが事実になることもあるのかと言う疑問や、分身による成長は自分には経験がない、見えなくても存在する物は存在するのではないか、といった実体的な疑問は、そういう科学的思考の呪縛があるのです。
事実の問題について、従軍慰安婦を認めようとしないのは賠償逃れのためだけという人が多いので事実が異なることの例にするのは納得しかねる、と言う意見がありました。多少不適切だったかも知れません。ただ、それでもその人たちにとってはそれが「事実」でしかない可能性があるのではないか、と考えています。批判されるべき事をした記憶があるのに隠しているのか、そのような記憶が全く飛んでいるのか、それは良心の問題なのですが、さてそれでは良心とはなんぞや、と言うことですねぇ。
話を戻しましょう。事実について、例えば、日記に書くことの意識的・無意識的な取捨選択に触れて、すべて書き残す方が不自然だ、と言う意見がありました。この考えは、「全て書き残す」事が可能だという前提の上に立っています。これも近代科学の発想です。映像や音声技術のなかった時代、表現手段が書物にするしかなかったのは無謀な挑戦だと言う意見もあります。漫画や小説などを別のメディアで再現できると思うのはおかしい、という意見は多少そこから逃れようとしていますね。小説・漫画・ドラマ・映画と言ったメディア間の完全な変換が不可能であることを認めることが出来れば、翻訳の不可能性と言うことは簡単に認められるはずです。その上で、例えば、自分の経験したことを完全に表現する手段はどこにあるのか、と言う疑問が出てきます。よく、ビデオカメラを持ってタイムマシンに乗って行ければ、歴史の謎は解けるだろうと言う人がいますが、全ての状況を完全に再現することは、今のメディアを総動員しても不可能です。それが可能だと考えてしまう人は近代科学的な思考の人。文字しかなかった時代、文字さえなかった時代にも、認識とそれに見合う表現はあったのです。と言うより、表現に見合った認識しかなかったと言う方が正確ではないか、と言うのが現代的なメディア論の考え方です。自分の体験したことの全てを表現するすべがないと言うことは、実は、それを認識するすべがないのと同じ事なのです。量子力学の世界では、こうして、働きかけなければ存在が確認不可能な物質の存在をどう捉えるかという事が問題になっています。歴史や事実と言うことを考えることは、科学的思考を超える認識や思考方法の模索でもあるわけです。
さて、そこで、信じる物を求めて宗教へ、と言う人もいるというわけです。宗教は科学では説明の出来ない物を説明してくれます。それは、前近代的な思考ですが、その中にどうも、近代を超える物があるのかも知れない、と言うことで、禅や原始仏教が見直されて来ているわけです。私はそれらの宗教を信じているわけではありませんが、そういう意味で非常に興味を持っています。
なんだかとても長くなってしまいました。このあたりについては、参考文献を挙げておきますので、読んでみて下さい。この2冊は、最近の快挙だと私は思っています。是非読んで下さい。読んで解らないことについてはあらためて意見交換をしましょう。これらに本を読んでまとめた上で、自分の意見をちゃんと提示してくれれば、レポートとして認めますよ。
99,10『相対論対量子論』メンデル・サックス ブルーバックスB-1268 講談社 \820
00,2『記憶/物語』岡真理 岩波書店 \1200
認識、と言うことについては、他に、共同体の認識枠のプラス面に日本文学の特徴があると言う意見がありました。それはその通りですね。俳諧が存在できるのは、そのような認識の共同体が存在したからです。そこに、現在の俳諧の危機もあるわけです。『おくのほそ道』以外の作品でも新しい認識の提示があるのに気づいていないだけではないか、と言うのも賛成です。実際の所『おくのほそ道』に関して私が授業で話しているような指摘を明確にしている人はあまりいません。文学以外の芸術などでも言えることですが、後になって作品の価値が決定的に変わってしまう(特にプラスに)ことがあるのは、読者の認識の枠組みが変わったために、作者さえ見えなかった物が見えてしまったことに拠るものです。文学を含む芸術を論じる楽しみはそういう発見にあるのではないかと思います。
そういえば、具体的な作品の例として、『GTO』はマンガが面白いという意見がある、『らせん』は論理的なので小説の方が解りやすい、『ふたり』のドラマ版は安っぽかったと言った情報がありました。『GTO』に関して言えば、私は、漫画はどんどん読みにくくなっている気がして最近はあまり読まなくなってしまいました。『東京大学物語』などもそうですが、読みづらい作品というのはなにか枠組みを壊して更新しているのかも知れません。文学に限らず、電化製品などでも、突出して進歩しすぎると廃れてしまう、という例を出してくれた人もいます。ぎりぎりのところで超えるのが難しいのでしょうね。この辺に関しては、『挑発としての文学史』(ヤウス 岩波書店)を読むべし。受容美学の基本文献です。
あとは、「完結拒否」。完全な成長の拒否、と取った人もいるようですが、そこまで言えるのかは疑問です。少なくとも私はそうは言ってません。関連して、シリーズの最終回には興ざめ、『ぼくを探しに』に完結拒否が現れている、日本のホラーは終わらない、竹下数馬の本にも完結拒否の話と山岳修行の話があった、など。山伏の修行については今日触れます。
その他。『おくのほそ道』の書写による変化は影響ないのか(最初の方でやったように、大きな変化はありませんし、研究はもっとも信頼度の高い写本で行っています)、フィクション作品の中の虚構部分をどう読むか(それを区別する必要はどこにあるのでしょうか)と言う疑問、ジャンルは目安にすぎない、同人誌などの原作の改編はどうか、と言った意見もありました。それから、「アノニマス」の意味が解らない、と言う質問もありました。授業中に言いましたが、“anonymous”は「匿名の・作者不明の・名もない」と言うような意味で、多分“famous”と対になる言葉だと思います。風景で言えば、「名所」ではない「無名所」ですね。名もない風景を風景として認識するためには西洋でも東洋でも相当な時間を費やしているようです。
歌枕ツアーに関して、予習したい人は、東海道関係の本や、歌枕・和歌関係の本、広重の浮世絵などで、小夜の中山・日坂などを調べておいて下さい。
レポートの量やテーマ設定が気になりだした人もいるようです。早めにテーマを決めて相談に来てくれれば、参考文献などのアドバイスはいくらでもしますよ。第1回目のプリントに、
自分でテーマを設定して、文献を調べたりしながら短い論文のような物を書いて貰うものです。締切は7月31日(月曜日)です。書式・分量は自由です。別の機会に説明しますが、独りよがりの感想文や、誰かの本を写したりまとめたりするのではなく、自分で問題設定をして、学術的な手続きを踏んで結論に到ると言う形式を重視します。
と書いてあるとおりです。論文作法についてはあらためて話します。
今週の話題
分身を含む、話の普遍的な型の存在について、心理学や民話研究の成果を紹介しながら話します。直接どうだ、と言うことでなく、似たような考えや、表象の存在に、取り敢えず驚き、受け入れることが大事でしょう。
配付する資料は、『ふたり』と『ピアニシモ』の文庫版の最後の11頁分、『ファンタジーの文法』の、プロップの考えについての解説、『昔話の深層』の影についての部分(途中省略)、それに、72,6『修験道と民俗』戸川安章 民俗民芸叢書72 岩崎美術社から、出羽三山の修行についての部分です。
*紙が半端になったので、ちょっとお知らせ。右の募集は、社会学科の前川先生の知り合いの方が企画に参加しているそうで、宣伝を頼まれました。かなり自由に書いていいようですので、気軽に応募してみて下さい。
あっという間に7月。私は土曜日に静大で蝉の声を聞きました。暑かったですね。さて、この授業も来週でおしまいです。まだ梅雨が続きますが、明ければ海だぁ! と言うことで、一年生は帰省してしまう人が多いのでしょうが、せっかく静岡に来たのだから、海水浴にも挑戦してみて下さい。最近は忙しいので毎日というわけには行きませんが、かなりの率で用宗に出没していると思いますよ。あとは西伊豆。素潜りでいろいろ採っても怒られないところもあるし。てなわけで、もう一息ですねぇ。
イチゴの苗をかなり沢山持ってきましたのでもらってやってください。根の出ているところを浅く埋めて(中心が埋まってしまわないように)、水をたっぷりやってください。その他、トマトとナスの苗もわずかですがあります。野菜はこれで最後です。ハーブは来週持ってきます。
来週は最終回なので、歌枕ツアーの最終確認をします。来週の授業までに出欠を確定してください。
前回の御意見
前回は、昔話や心理学の研究を紹介しながらストーリーの定型のような話をしました。いつも以上に難しい、プロップ(民話の研究をしたロシア人の名前です)の型と『おくのほそ道』はどう関係があるのか、と言う意見・疑問もありましたが、面白い、理解しやすい、新しい視点が拡がる、他の作品でも注意するようになった、など授業そのものについて、評価してくれる感想がちらほらとありました。有り難いことです。『おくのほそ道』と完全に一致するという話ではありません。そういう普遍的な型の存在が議論されているという状況を確認した上で『おくのほそ道』のような作品についてもこうした方法を応用できるのではないか、と言うわけです。民話でも小説でも、ある方法をそのまま当てはめてどうにかなるとは考えない方が賢明です。当面する研究対象にどのような方法が有効なのか見極め、従来の方法を、それに対応できるように改めるところに研究者のセンスが問われるわけです。
ストーリーの型と言うことに関しては、確かに昔話に多い、現代のドラマや小説も変わらないのか、『遠山の金さん』や『水戸黄門』も似ている、童話を読み直してみるとおもしろいかも、『竹取物語』の話が解りにくかった、ヨーロッパの昔話と日本の昔話の違いに興味、日本の昔話について分析した本はないのか(あとに少し紹介しました)、日本人にとっては結婚が最大の幸せではないのだろう、展開の決まっているドラマ・本・ゲームの意味を考えたい、RPGのシナリオの参考になる、人が受け入れることが出来た流れなのだろう、受け入れられない枝のはなしもあればいいのに、と言った意見、更に「ASAYAN」のようなドキュメント的なテレビ番組の流れも関係あるか、と言ったところまで話が拡がっています。『ファンタジーの文法』は既に持っている人もいるようですね。また、意識しなくてもそうなる、ということで、影響と模倣、オリジナルと言うことについて考えた人もいます。登場人物が一人歩きする、と言うこととの関係に興味を持った人もいますね。「型」というものに縛られたくないが、壊すのではなく理解した上で違ったものを作ることがだいじだ、という意見もありました。時代劇ドラマの型については、授業で何度か話したことがあります。様々な娯楽ストーリーの型を抽出したとき、今度はそれが文化的にどういう意味を持つストーリーなのか、と言うことを考えてみると面白いと思いますよ。逆に型からはずれる作品が存在しない訳ではありません。そういう作品がどのような意味を持つのか、というのもとてもおもしろい問題です。そういえば、留学生から、『ふたり』『ピアニシモ』は民話なのか、と言う質問がありました。こういう質問が出てくるところに、こちらの説明不足が露呈するわけですが、逆に面白い問題提起にもなります。つまりこれらは小説なのか、民話とどう違うのか、本でもドラマやゲームでも、娯楽的な物に共通に見られる型があるとすると、作品の個性とは何か、或いはこうした型をうち破るものとは何か、と言うことを考えてみる必要がありそうです。
分身・欲望の模倣と言うことについては、そんなもんかな、と言う意見と思い当たる節がある、と言う人がいます。自分の考える他人の不確かさ、「エヴァンゲリオン」で人の数だけ自分は存在すると言う話があった、投影なら解る、二重人格に興味がある、分身による成長は自分一人の努力か、『銀河鉄道999』『魔女の宅急便』もそういう話、『源氏物語』の解釈もおもしろそう、そのような理由での愛は本当の愛か浮舟の生涯はなんだったのか、など、こちらの感想も様々でした。
小論文で記号論を勉強した、と言う人もあり、ポストモダンに興味がある人、科学で証明できない物を研究するのはちょっと馬鹿らしいと考えている自分がいる、と言う人もいます。
その他、事実は人生の反映であり、自分の内面による解釈だ、ユングの言葉は核心をついている、キリスト教は聖書の解釈が確定している(特にカトリック)ので見直されない、「完結拒否」に関して、そもそも完全ということがあり得ない、と言った意見がありました。
先週触れなかった部分と今後の予定についても、山伏のこと、日本の宗教に興味がある、翻訳論、翻訳小説が海外で賞を取ることに興味がある、など、期待されてますが、あと2回ですから、ちょっと厳しいですねぇ。
竹取物語について、去年別の授業で触れたことがあるので、そのまま引用しておきます。
昔話と物語、或いは小説、と言う問題の出発点になるので少し説明しておきます。確かに、『竹取物語』は、その型に沿っているように見えます。しかし、この疑問を書いてくれた人も指摘しているように、天皇と結婚しないで月に帰ってしまいますね。ここが問題です。桃太郎は、こちら側の世界から向こう側(非日常・異界)に行って事業を成し遂げ、帰ってきます。そういう意味で言えば、姫君が地上に現れたのは、彼女にとっては鬼ヶ島に来たような物だったわけです。罪をうけてきた、と言うことですから、まさに貴種流離の話で、地上で苦労したことで成長し、月に帰って幸せな結婚をしたのでしょう。ということで、異界がこちら側である、と言うところが不思議なのですね。もう一つ問題なのは、個々の貴公子の求婚譚も「難題−苦労−結婚」と言う型の昔話の寄せ集めに見えますが、これらの話はみんなインチキが見破られて失敗する話で、駄洒落的な落ちがついています(全体の最後もそうですが)。これが何を意味するのか、と言うと、おそらく、この物語以前に苦労して幸せな結婚をする昔話がたくさんあって親しまれていて、この物語は、そういう伝承を踏まえたパロディだろう、と言うことなのです。そういう意味で、昔話の型に自覚的だった知的でユーモアのセンスのある作者の手によって、初めて昔話・伝承の世界から抜け出した物語が生まれた、といっても良いわけです。当時としては結構衝撃的だったのではないでしょうか。
参考文献追加
71,10『欲望の現象学』ルネ・ジラール 法政大学出版局
*欲望の三角形理論。
75,10『物語りのメッセージ』クロード・ブレモン 審美社
*プロップの修正案、近代小説への応用。
80,11『民話の構造』アラン・ダンダス 池上嘉彦訳・解説 大修館書店
*プロップの修正案、アメリカ民話への応用。
81,10『個人主義の運命』作田啓一 岩波新書 黄171 岩波書店
*ジラールの日本近代文学への応用。
82,7『夢と昔話の深層心理』河合隼男 小学館
85,4『昔話と人格発達』荒木正見 九州大学出版局
87,11『説話の宇宙』小松和彦 人文書院
*プロップなどの日本の昔話・説話への応用。
88,3『文学テクスト入門』前田愛 ちくまライブラリー9 筑摩書房
*プロップ以降の、日本近代文学への応用。
88,8『システムと儀式』大塚英志 本の雑誌社
*プロップの、漫画・ゲーム分析への応用。
89,4『小説から遠く離れて』蓮見重彦 日本文芸社
*プロップ等の、日本現代小説への応用。
98,11『私の中の他者』浜田寿美男 金子書房
「自己の探求」シリーズ、全14巻予定、刊行中。
99,5『ストーリーアナリスト』T.L.カタン 愛育社
ハリウッド映画のシナリオの方法と分析シリーズ、刊行中。
99,11『他者の心は存在するか』金沢創 金子書房
「自己の探求」シリーズ、全14巻予定、刊行中。
00,2『ハリウッド・リライティング・バイブル』リンダ・シガー 愛育社
ハリウッド映画のシナリオの方法と分析シリーズ、刊行中。
さて、最近は『おくのほそ道』から離れた話が多いので、レポートについて、『おくのほそ道』と関係しなくてもいいのか、と言う質問もありました。レポートについて少し触れておきましょう。先週のプリントにも引用しましたが、レポートについては以下の要領で書いてもらいます。
自分でテーマを設定して、文献を調べたりしながら短い論文のような物を書いて貰うものです。締切は7月31日(月曜日)です。書式・分量は自由です。別の機会に説明しますが、独りよがりの感想文や、誰かの本を写したりまとめたりするのではなく、自分で問題設定をして、学術的な手続きを踏んで結論に到ると言う形式を重視します。
少し補足します。
テーマは、授業に関することで自由に設定してください。従って、『おくのほそ道』に触れる必要はありません。ただし、授業と関係ない物はダメです。『おくのほそ道』に触れない場合は、なぜそのテーマが授業と関わるのか、と言う理由を、必ず冒頭に書いてください。
書式・分量は自由です。ワープロ・パソコン・手書き・用紙など、全て自由ですが、複数の紙は、必ず綴じてください(外れるクリップは不可)。又、最初の頁(表紙を付ける場合は表紙)に、授業科目名・学籍番号・氏名を記入してください。
分量について、後で質問に来る人がいますが、まったく自由です。自信があれば5行で提出してくれても構いません。むしろ何百枚も書かれると困ります。評価は量ではなくないようでします。
提出場所は、人文A棟3階、エレベーター前のポストです。私の名前が入ったところに入れてください(間違えると大変ですから、注意してください。コピーをとっておくことをお勧めします)。私に直接、又はe-mailでもよいです。ただし、メールの場合は、文字化けなどのトラブルがあり得ますので、txt・html・word(97まで)・一太郎(ver.8まで)のファイル形式で作成して添付するか、直接メールとしておくってください。いずれにしても、メールのレポートについては、着信確認の返事を出します。
締切は、7月31日(月)17:00です。厳守です。この時間に回収します。事前の連絡無しに遅れた物は単位を放棄したものとします(それで不可になった例は過去に複数あります)。特別な事情で遅れそうなときは、予め連絡してください。
次に「自分でテーマを設定して、文献を調べたりしながら短い論文のような物」と言うことについて補足しましょう。この授業を通して疑問に思ったり興味を持ったりしたことがいくつもあると思います。そういう事柄について、まず問題提起をします。次に、その問題を解決するためには、どのような方法・手続きが必要か、どんな参考文献があるかを調べます。その上で、その方法に則って、予め設定した問題について、自分なりの結論を出します。
簡単にまとめると、
序論(何を、どこまで明らかにしたいのか、と言う問題提起)
本論1(序論で提起された問題を解決するために必要な準備)
本論2(参考文献や自分の考えの整理)
結論(何が、どこまで明らかになったか、結局解決できなかったことは何か)
と言うような構成になります。これは文系の一般的な学術論文の型です。それが一番よいというわけではありませんが、学術的な文章を書き慣れていない人はこれで行くことをお薦めします。
さて、レポートの評価ですが、これも最初のプリントにあるように、最初の宿題が2割、今回のレポートが8割です。以下のような要素をそれぞれ得点化(各16点)し、合計してつけます。
1 書き方:誤字・脱字・文体の統一など
2 着眼点:問題設定・論証方法の妥当性など
3 論理性:主語/述語・修飾語/被修飾語、段落構成・論理展開など
4 資料操作:引用・参考文献の明示・資料評価の妥当性など
5 独創性:関連づけや発想のオリジナリティ
*引用・参考文献は、必ず書名(論文名)・筆者名・刊行年・版元名を明記すること。インターネットから引用する場合は、URLとダウンロードした日付を明記すること(印刷して添付するのが望ましい)。引用文献が示されていないレポートで、引用していることが明らかになった場合は不可にします。
*成績の合計点が50点に満たない(そのままでは不可になる)場合に限り、御意見帳をチェックし、授業に対する積極的な取り組みが認められれば救済します。それ以外では御意見帳は評価の対象にはしません。
*レポートの参考にするために御意見帳を使用したい人は、来週持ち帰ってください。ただし、必ずレポートと共に、2枚とも提出してください。
*レポートと御意見帳は、後期に入ったら返却しますので、私の研究室に取りに来てください。コメントを付けて欲しい人は、レポートの表紙に「コメント希望」と明記してください。
何だか大変そうな感じですが、やってみれば楽しいものです。学術的な文章を書くと言うことがどう言うことなのか、これから少しずつ慣れていってください。なお、参考文献などの相談は随時受けつけますので、遠慮なく研究室に来てください。私を含めて人に聞いて情報を集めるのは、調べ物の一つの方法です。
今週の話題
先週触れられなかった山岳修験について触れてから、英訳や漫画を少しみてみます。配布するコピーのもとの本は、第1回のプリントに紹介してあります。多くを検証することは出来ないので、誰かレポートにしてみたらいいかもしれません。取り敢えず、こういう比較をするときの基本的な考え方についての説明になりそうです。コミュニケーション論・記号論などが関係する分野です。
「やっと」か「早くも」かは、人によって違うと思いますが、何はともあれ最終回になりました。私の担当する人文の1年生対象の授業は、後期にはありませんので、これでしばらく御無沙汰です。歌枕ツアーやレポートに関する質問・相談だけでなく、後期以降も気軽に研究室に遊びに来てくれれば嬉しいです(園芸相談とか)。
そういえば、朝顔が咲き始めたという人もいてほっとしていますが、イチゴは無事ですか。多少弱っていた感じもしたので、活着しなかったかもしれません。悲しいですが、仕方ありません。イチゴに関しては、まだまだありますので、もう一度欲しいという人は御意見帳に書いておいてくれれば、指定された日に持ってきますので、研究室に取りに来てください。取り敢えずある程度落ち着くまでは肥料はいりませんが、購入するなら、ジャンボエンチョーなど(園芸専門店は高いです)で、化成・配合肥料を買うのが一番安くて手っ取り早いです。有機農法で貫こうと思うと多少予算を追加する必要があります。肥料を買う場合は、窒素過多にならないように、実の生る野菜用の物を買ってください(肥料の三大要素N・P・Kって、憶えてますか?)。
今までに、歌枕ツアーに参加希望をした人(曖昧だった人・キャンセルした人も含む)と、新たに参加したいという人は、今日、授業終了後(早めに終わるつもりです)、集まってください。最終的なメンバーの確定をし、資料を配布します。
それから、先週も書きましたが、レポートの参考にするために御意見帳を持って帰りたい人は、今日、持って帰ってよいです。ただし、レポートと一緒に、二枚とも提出してください。添えられていない場合は、不備と言うことで不可です。
前回の御意見
先週は、修験の話と漫画や翻訳の話をしましたが、その前に触れた『竹取物語』の話の反響がかなりありました。なるほど、成熟した文化があった、すごい、かぐや姫を通して人間が成長する話なのではないか、など。もちろん、かぐや姫ではなく、それを受け入れたこちら側が主役の話なのですが、個々の貴公子達のエピソードが、成長物語のパロディになっているところがすごいわけです。また、桃太郎伝説に興味のある人、「人魚姫」は日常から非日常に戻らない話、と言う指摘もありました。
修験については、『おくのほそ道』が「死と再生」の話というのは納得できない、普通は死を避けるのに死を忌むべき物と見なさないのだろう、死と再生の話をもう一度してほしい、と言う意見がありました。『おくのほそ道』と「死と再生」の関係については、竹下数馬氏の本を参照していただきたいのですが、それにしても大事なポイントの説明が抜けていました。プロップが分析した多くの魔法物語に共通するストーリーの型が、人間の成長の比喩であり、成人儀礼(加入儀礼)の物語化である、という民俗学・神話学・心理学などの研究があるわけですが、「死と再生」ももう一つの大きな儀礼と関わっています。それは、カーニバルなど、季節の移り変わり(農事暦)との関係です。『遊行柳』で触れた能の構造も、これに関わっています。この辺りについては補足説明します。
翻訳や漫画、映像化については興味のある人が多いようで、沢山の意見がありました。英訳にしても、漫画にしても、一つの作品から違ったものが出来ることに取り敢えず驚いたという人もかなりいます。勝山先生の授業で「春はあけぼの」や「吾輩は猫である」の訳の問題に触れた、田村先生の授業でも英訳や仏訳についてやった、などの情報もありました。物語なら翻訳可能だがこういう文章は困難、英訳すると現代文になる、超えられない壁がある、ある言語が表現しうる概念が異なっている、日本語はいろいろな表現があって美しい、漫画や英訳で伝わるのか、原文を訳すのと現代語訳の英訳と言う問題もある、原作を読んで解釈することが大事、外国文学を読むときの問題でもある、中国語訳をさがしたい、漫画によって顔が固定された経験がある、読みを固定してしまうのは怖い、『銀河鉄道の夜』は、映像で見る前に読んでみたかった、ある小説の人物は殆どの漫画同人誌で同じ感じに描かれる、かさねが馬に乗るなどの漫画の解釈はどこから来るのか、曾良以外の大勢の弟子を連れていると思っていた、古典の漫画の良い物を紹介して欲しい、などなど。そのなかで、「芭蕉も失われた風景を追い求めていたので、映像化する現代の人も同じ」と言う意見と、「その作品を本当に読もうと思ったら、やはり原文を読まなければダメなのだろうか?そもそも「本当に読む」なんて事は、人によって違うものが見えているから存在しないのかもしれない。それでも自分なりの、何かにとらわれない解釈をすることは可能なのか考えてしまった。」は、非常に重いですね。この辺が今日の話、つまりこの授業のまとめになるような気がします。
その他、辻仁成は小説家としては「ヒトナリ」ではないかと言う指摘もありました。本人がそういっている事は知っているのですが、つい「ジンセイ」と読んでしまいます。済みません。
レポートについては、分身や成長の話をどうレポートにすればよいか、など、テーマを決めかねている人が多いようです。また、参考書が見つからないと言う人もいます。購入する必要がありそうなら早めに頼まないと間に合わなくなりますよ。それから、他の授業で学んだことに触れることはある、着眼点や独創性の評価は、人間そのものの評価になりそうで気になる、などの意見もありました。先週言ったのは、全く私の授業に関係なく、他の授業の話のみでレポートを出してきた例のことです。それぞれの学問はみんなつながっているのですから、他の授業など、多くの情報を複合するのは当然であり、とてもよいことです。また、着眼点や独創性というのは、確かに、センスの問題なんですが、様々な研究に目配りをした上で、座標軸の縦横を換えてみるといった、ちょっとしたことでよいのです。あまり深く考えないでください。
最終回が近づいたので、『銀河鉄道の夜』を読み返したときに、授業を受ける前と違った読み方が出来た、自分のとっている授業の中で一番視野の広がった授業だった、と言った、総括的な感想も出てきました。今週は最終回ですので、御意見帳の15のマスも使って、この授業全体に関する遠慮のない意見を書いてください。特に、改善すべき点、来年度以降どんな授業があったらいいか、と言った、建設的な意見をどんどん出してください。
なお、先週教室に持ってきた本のうち、漫画は楊琳さん、英訳は繁田瑞穂さんが、まとめて持っています。既に次の人に渡っているかもしれませんが、交渉しながら有効に利用し、レポート締切日には、必ず返してください(分からなくなってしまう可能性もあるので、バラバラにしないでください)。当たり前のことですが、絶対に書き込みはしない(鉛筆もダメです)、紙に折り目を付けない、近くで飲食をしない、など、書物を傷つけない最低限のルールは守ってください。
今週の話題
おさらいが中心になりますが、その上で、解釈という行為、文学・言語文化、と言う問題について考えてみましょう。
御意見の中にもありましたが、俳諧を外国人が理解できるのかどうか、と言う問題設定は、どういう条件の下で可能になるのでしょうか。韻文や掛詞や省略があるからなのでしょうか。物語は翻訳可能ですか。物語と小説はどう違うのでしょう。外国文学という問題も考える必要がありますが、例えば、ハリウッド映画の多くが、それほど違和感なく日本を含む非英語圏で受け入れられるのはなぜでしょう。歌舞伎や能を、予備知識無しに直感的に理解してしまう外国人もいるのだそうです。我々日本人は、日本語を使っているのに、古文は辞書がなければ理解できないし、現代の作品でも理解できない物が少なくありません。
解釈は読者の数だけあるのに答えが一つなのはおかしい、と言う議論があります。しかし、それならなぜコミュニケーションは成り立っているのでしょうか。それとも本当は成り立っていないのでしょうか。
第12回のプリントで「共同体の認識枠のプラス面に日本文学の特徴がある」と言う意見を紹介し、「俳諧が存在できるのは、そのような認識の共同体が存在したからです。そこに、現在の俳諧の危機もあるわけです」と書きました。俳諧というのは、実は記号論やコミュニケーション論のモデルとして非常に有効なのです。そういう意味では、授業で俳句を作る機会があってもよかったのですが、今回は時間がなさそうだったのでやめてしまいました。別紙は、参加者が少なかったのであまり意味のある物ではありませんが、去年、大学院の授業(言語コミュニケーション論)でやった実験の資料です。みんなで持ち寄った自作の句について、気に入った句と理解できない句を5句ずつ(自分のは除く)選んでもらったものを、好評順に並べたものです。その時の私の解説を抄出してみましょう。
俳句の場合に、[解りやすい/解りにくい][気に入る/気に入らない]([出来/不出来]と言い換えても良いかも知れません)と言う対立の組み合わせは、必ずしも連動していないらしいことが判りました。
一般的な情報伝達の場合、理解しやすさが最も重視されるわけですが、いわゆる“文学的表現”を意図しない場合でも、解り難さは必ず存在しています。俳句の例は、それを極端な形で示してくれているに過ぎないわけです。
そうした考えのもとに、解りにくかった句を個別に検討してみると、以下のように、いくつかの共通した原因が存在していたことも見えてきます。
一つは、17文字(音節)で表現しなければならない俳句と言う形式の問題として、助詞が省略されたり語順が入れ替わったりして、文脈が取りにくくなるということがあります。
使われる言葉としては、地名などの固有名詞・俳諧に特有の用語等の使用が挙げられ、話題としては、私的な内容・時間的、或いは空間的に限定される内容が、解りにくかったと言うことになります。
これらの結果は、ある程度予想通り、と言うことが出来るでしょう。それでは、これらが、なぜ、解りにくいのか、と言う問題になると、少し考察が必要になります。コミュニケーションと言う物が、そもそもどの様な仕組みで成り立っているのか、と言う問題とも関わってきそうです。
【省略】
発信者が伝達したい内容は、一定のコード(語彙と文法に相当)によって記号化されてメッセージとなり、受信者に伝えられると、受信者も同様にコードを参照して解読を行い、伝達内容を理解する、という一連の過程を、コミュニケーションの基本的な流れと言うことができる。
このとき、発信者と受信者が、全く同一のコードを持っているというわけではなく、メッセージが伝えられる経路(メディア)の性質に因っても、伝達に過不足が生じるため、受信者は、コードの他にコンテクストを参照して解釈する必要がある。コミュニケーションには、コードへ依存度の高いものと、コンテクストへの依存度の高いものとが存在する。
文学的なコミュニケーションは、コンテクストへの依存度が高いものと言うことが出来る。実際、講義で教材とした俳句の例を見ても、コンテクスト無しには理解しにくい物が多数ある一方で、コードによって理解できるものが却って評価されない、ということがあった。
しかし、古典俳句等の日本の古典作品では、必ずしもコンテクストへの依存度が極端に高いとは言えない。むしろ、季語・付合等のコード体系が、現代人の常識を遙かに超えたかたちで存在していることが、これらの文芸を特徴づけていると言える。
こうしたコードの共有は、俳諧のみならず、日本の古典文芸が“座”に代表されるような、小さな解釈の共同体の内側で享受されてきたという、文芸の“場”の存在の重要性を示している。
ここには、コミュニケーションにおけるコードとコンテクストの問題が、非常に極端な形で表面化していることが解ります。そのことは、を実用的な言語と芸術的な言語の問題でもあるでしょう。
それは、文学と言うことを問う重要なヒントであるかもしれません。と、言うことで、この話は、来年の文学概論に続きます。お楽しみに。