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入試問題を作る
| 大手予備校が、大学の入試問題を代りに作るビジネスを展開しつつあります。実際、入試問題には出題ミスも多く、ミスがない場合でも、理不尽な問題が少なくないのは事実です。それは、ある程度開かれた場で議論し、解決していかなければならない問題であろうと思います。
私は、静岡大学の入試問題(国語・古文)の作成スタッフの一人です。専門分野が特殊であったり、近親者に受験生がいたりなど、特別の事情がない限り、大学の教員の殆どは、何らかの形で入試の出題・採点に関わっています。従って、私が静岡大学の入試に関わっていることは秘密ではありません。ただ、どの問題にどの程度関わったのか、ということを明らかには出来ないのですが……。
そういうわけで、ここでは、私たちが、どのような議論を経て入試問題を作り、どういうところに注意して採点しているのか、可能な限り具体性を持たせながら述べてみようと思います。
受験する側、受験生を指導する側から(それに、お上関係)の入試問題論は多くありますが、出題者の立場は微妙で、個人的に発言しにくい(公的にはもっと発言しにくい)という状況があります。少し、そういう状況に風穴を明けてみたいと考えています。
そもそも入試は必要なのか、という根本的な疑問がないわけではありません。それでも、今ある制度の中で最善の策を考えなければ先へは進めません。受験生・教員、受験産業関係者の御意見をお待ちしています。
| 入試問題については、2000年の春に、少し書いた物がありますが、公開しないままになっていますので、この機会にお読みいただければ有り難いです。以下、この頁での議論の前提にもなりますので、かならず、先にこちらをお読みください。 |
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*人文学部の入試問題の一部が公開されています。今後、順次、完全公開になる予定です。入試情報についてはこちらを参照のこと。
* 静岡大学入試課ホームページもご覧下さい。
目次
2001,04,09
学力と言うこと
2001年度の入試問題
2001,05,28
集計のミス
2001,06,21
集計ミス その2
2001,09,10
学力と言うこと その2 入試に必要?
2002,07,10
文法不要?
2002,08,08
学力と言うこと その3 就職に必要?
2001,04,09
学力と言うこと
新しい教科書、特に歴史教科書を巡って色々議論がにぎやかに交わされている。「学力」についても議論百出という感じで、先日も研究室に遊びに来た卒業生と暫く学力談義。
彼は、目下公務員試験のために専門学校(?)に通っている。模試の出来はかなりよいらしい。医師の国家試験の漏洩問題でも感じたことだけれど、多くの資格試験が選択問題によって行われている現状には、首を傾げざるを得ない。結局記憶が大事なのだろうか。
円周率が3になる、という話と共に、台形の面積の出し方が消えるという話が話題になっている。本質的な問題は、それを教えるかどうかではない気がしているのだ。台形の面積は、「(上底+下底)×高さ/2」と言うことを憶える力は、記憶力であっても学力ではない。面積が必要な図形が、一組の対辺が平行な四角形であるとわかったときに、どのように考えれば答えが得られるのかを、公式や定理に頼らずに考える力、公式や定理を産み出す力が学力なのではないか。
そう考えると、記憶に頼る試験が多いことには大きな疑問がある。
例えば、古典文法。助動詞の活用や接続を憶えるのはつまらないから、古文嫌いになる。文法は解らなくてもフィーリングで読み解けばいい、と言った議論もあった。しかし、文法は、憶えるものなのかどうか。フィーリングの正体は何か。
予備校講師時代、学問的には疑問のある活用を、声を張り上げて暗記させる講師には、私はなりたくなかった。私は、そういう講師よりはるかに不人気であったのは認めざるを得ないけれど、ある種の固定客がいたことも確かで、そういう受験生は、「記憶する文法」に疑問を持っていたんだと思う。文法は、誰かが規則を作って、皆がそれにしたがっている物ではない。皆が使っている言葉に存在する法則を体系化して記述した物が文法なのだから、「体系化して記述する」過程を学べば、自分で活用表を作ることが可能になる。入試問題程度の短い文章でも、似たような用例が出てくるから、その中から一定の法則を見つけだせば、暗記していなくても答えに辿り着くことは可能なのだ。そういう能力が、実は、リテラシーの本質である。外国語や理系の学問の場合でも、与えられた資料の混沌の中から、分類・関連づけによって法則を見つけだしていけばよい。それが科学的・論理的思考の初歩だろう。そういう力をこそ、問わなければならない。
さて、ここで、今年(2001年)、実際に出題された古文の問題を見てみましょう。書式が変わらざるを得ませんが、様子は理解していただけると思います。
次の文章を読んで、後の問いに答えなさい。
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なほうちすぐるほどに、ある木陰に石を高くつみあげて、めにたつさまなる塚あり。人に尋ぬれ
A
、梶原が墓となむこたふ。道のかたはらの土となりにけりと見ゆるにも、顕基中納言の口ずさみ給へりけむ、「年々に春の草の生ひたり」といへる詩、1 思ひいでられB
、これもまたア 古き塚となりなば、名だにもよも殘らじとあはれなり。羊太傅が跡にはあらね
C
、心ある旅人は、ここにも涙をや落とすらむ。かの梶原は、将軍二代の恩にほこり、武勇三略の名を得たり。イ 傍に人なくぞ見えける。いかなる事にかありけむ、かたへの憤りふかくして、たちまちに身をほろぼすべきになりにけれD、ひとまども延びんとや思ひけむ、都の方へはせのぼりけるほどに、駿河国きかはといふ所にて2 うたれにけりと3 聞きしが、ウ さはここにてありけるよとあはれに思ひあはせらる。讚岐の法皇配所へおもむかせ給ひて後、志度と云ふ所にて E 跡を、西行修行のついでにみまゐらせて、「よしや君昔の玉の床とてもエ かからむ後は何にかはせむ」と4 よめりけるなど5 承はるに、オ まして下ざまのものの事は、申すに及ばねども、さしあたりてみるに、いとあはれにおぼゆ。
-
あはれにも空にうかれし玉ぼこの道のべにしも名をとどめける
(『東関紀行』による)
注
○梶原 梶原景時。源頼朝の家臣。 ○顕基中納言 源顕基。後一条院の没後出家した。○「年々に春の草の生ひたり」
『白氏文集』にある詩の一節。 ○羊太傅 西晋の名臣。彼の早世を惜しんで泣く人が多かった。
○三略 中国の兵法書。ここでは兵法そのもの。 ○ひとまど ひとまず ○讚岐の法皇
崇徳院。 ○玉ぼこの 「道」にかかる枕詞。
問一 傍線部1から5の動作の主体となる人物を、本文中のことばで答えなさい。ただし、作者自身の場合は「作者」と記入すること。
問二 空欄AからDに、文意が通るように接続助詞を正しく入れなさい。
問三 空欄Eに、以下の語を、正しい活用形に改めて入れなさい。
-
隠る・さす・おはします・ぬ・けり
問四 波線部アからエを、わかりやすいようにことばを補って口語訳しなさい。
問五 波線部オについて、作者は、梶原の墓のどのような点を「あはれ」だと感じているのか、「まして」という言葉に注意しながら説明しなさい。 |
これが実際の問題です。この問題は難しいですか? 「奇問」ですか? それとも、逆に、センター試験があるから必要がないような基本的すぎる内容ですか?
下は、その解答例・狙い・採点基準。問題作成集団が作成し、大学の本部に提出したもので、請求があれば他のすべての科目についても閲覧できるはずです。今後は、このような情報も、大学として公式に公開していくことになるはずです。
*ここをお読みの方は既に御覧になっているはずですが、2000年度の出題に関する趣旨は、こちらにあります。念のため。
*なお、「解答例」は、「正解」を意味するのではありません。実際には、例の通りでなくても採点基準に照らして部分点を出しています。
解答例
問一
1 作者 2 梶原 3 作者 4 西行 5 作者
問二
A ば B て C ども(ど) D ば
問三
隠れ させ
おはしまし に ける
問四
ア (時がたって)古塚となってしまったならば、名前さえもまさか残りはしないだろう
イ (将軍に気に入られ、才能もあったので)まわりに誰もいないかのように威張って見えた
ウ (梶原が討ち死にしたという場所は)ここであったのだなぁ
エ (あなたがお亡くなりになってしまわれた)後は、何になるだろうか(何にもなりはしない)
問五
鎌倉幕府の重臣として名を馳せた梶原が、失脚して落ち延びる道中で討ち死にし、今は路傍の塚に名を留めているが、やがて名前さえ忘れられてしまう古塚になるだろうと言うことに対して、その盛衰の落差は、崇徳院のように身分の高い人ほどではないにしても、目の前に墓を見てしまうとたいそう哀れだと感じている。
* 崇徳院のように高い身分の人でさえ、死んでしまっては生前の栄華は無意味になってしまう。まして、身分の低い梶原は言うまでもないことだが、目の前に墓を見てしまうとたいそう哀れだと感じている。
全体のねらい
短く、比較的読みやすい文章を正確に把握し、基本的な知識を駆使しながら深く読む事が出来るかを問う設問の配列になっている。
出題のねらい
問一 主語を問うことは、文の構造や敬語の理解を確認するだけでなく、文章全体の人物関係を把握させる意味がある。
問二 文法に関する問題。文脈を理解し、条件接続を正確に読みとっているか確認する。
問三 文法に関する問題。活用の理解だけでなく、敬語や動詞・助動詞の関係についての知識も問う。
問四 短文の口語訳。文脈から言葉を補うとともに、文法や慣用的な表現の理解を問う。
問五 文章全体が、何について、どのような意識で書かれているかをまとめさせる問題。
採点基準
問一 解答例の通り。
問二 解答例の通り。ただし、「ど」「ども」は許容。
問三 解答例の通り。
問四 補うべき内容、及び、個別の文法的な要素について加点する。
問五 生前の栄光と死後の悲哀の落差という点について、崇徳院と梶原の対比、西行と作者の対比を交えて書くこと。その上で、実見した事による感興であることを明記すること。これらの要素にそれぞれ加点する。
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最終的には、各設問の正答率や誤答の傾向なども分析してみたいと思いますが、なかなか時間がないので、あまり期待せずにお待ちください。採点したときの印象では、この問題全体の成績は、5割を若干上回った程度でした。
もう少し詳しく解説してみましょう。
『東関紀行』は、鴨長明作ではないかとされたこともありましたが、現在では否定されている、中世の紀行文で、本文からも判るように、この部分は、駿河の国(現在の静岡県中部)を通過中の記事です。国語学の先生によれば、文法的には鎌倉初期にしては新しい文章なんだそうで、成立年代にも疑問があるのかもしれません。
さて、「梶原」「西行」「崇徳院」と言った名前がかなり身近な存在として書かれている点から、それにしても、旅人は鎌倉初期の人物です(最初から多少予想していたことですが、「西行」が固有名詞だとは思わなかった人がいました。これは、文学史の知識も問われているのです)。話題に出てくる人物については、簡単な注もありますが、日記文学・随筆・歴史物語などの場合、歴史的な背景について知識がある方が有利です。
問1は、動作の主体を問う問題です。単独の動詞ではなく語句に傍線がしてありますから、動詞の主語を聞いているのではない、と言うことを確認しましょう。で、あとは、敬語と文脈でたどることになります。 1は、「られ」が自発であること、 2の「れ」は受け身です。 3は、「けり」を伝聞で受けた本人の「し」、ですね。 4は敬語がありませんが、「けり」に注意、続く5が「承る」であることと考え合わせればよいでしょう。問題は、文脈がたどれるかどうかです。このことは後でもう一度触れます。
問2。「接続助詞」と言う文法用語を知らないとまったく答えられませんが、幸い、そういう人は殆どいませんでした。順接・逆説・仮定条件・確定条件と接続の活用形から判断することが可能ですが、この問題も、文脈を把握していないとつながらなくなります。特にDは、逆でも文意が通るので迷うところです。
問3は、活用・接続の複合的な知識を問う問題です。まぁ、今回の問題の中では最もやさしいと言えるでしょう。
問4。それぞれにポイントになる表現が含まれていますので注意が必要です。 アでは、「……なば、……じ」という仮定の上での予想、「だに」「よも」など、重要な語句が連続しています。「よも」を「世の中に」「等とするのは誤りです。 イは、このまま漢字に直せば、「傍若無人」ということで、ある種の慣用的な表現です。その原因としての将軍の厚遇があったわけですから、「並ぶ者がなかった」等でも加点されますが、「梶原によい家臣がいなかった」という答えがいくつかあり、実は試験の翌日の新聞にもそういう解答が出ましたが、そうはとれません。「そばで人が泣いているのが見えた」は論外ですが、結構いました。 ウは、「さ」をどこまで入れるか迷うところです。「駿河国きかはというのは」でも間違いではありません。 エ、これは、西行の和歌の一部です。「かは」が反語になっていることを理解した上で、この文章全体の基調を押さえておく必要があります。
問5。この設問の文章については、かなり議論がありました。本文には、「あはれ」が4回出てきます。それが、どういう情調の反映であるのか、と言うことを、文章全体の流れの中から抽出する必要があるわけです。これは、簡単なようで、非常に困難な作業です。解答例でも入試レベル、と言うことで、大学生以上ならさらに深い読みが要求される部分です。
と言うことで、「文脈」について、もう少し踏み込んで解説してみましょう。
この文章は、旅人が、「梶原の墓」を目にして物思いに耽っている、その頭の中をよぎる思いを書き連ねたものだと言えます。つまり、語っている現在は、梶原の墓を見ている時間ですが、そこから思いが飛んで、いろいろな場所に移っているわけです。最初は顕基中納言の口ずさんだという漢詩の一節、そこからの連想で中国の故事へ。で、梶原に戻って、彼の盛衰をたどって討ち死にに至り、我に返ります。そのあと今度は、崇徳院の御陵に参じた西行とその歌を思い出して、自分も歌を詠んでいます。語り手の目の前にあること、本人の回想に加えて、伝聞もあるわけですから、それぞれを正確に押さえておかないと混乱します。
問5と関連して更にいうと、梶原の墓から羊太傅の墓や崇徳院陵が連想されるだけでなく、墓参と言う自らの行為から、顕基や西行への連想も働いているわけです。従って、「まして下ざまのもの」と言う部分は、文脈上は崇徳院に対する梶原を指しながら、西行に対する自分と言う構図が浮かび上がることになります。対比という意味では、梶原の盛衰と崇徳院の盛衰ももちろん押さえておく必要があります。
「めにたつさま」である梶原の墓が、それでもやがては古塚として忘れられるだろうと言う予想のもとに、それは、崇徳院ほどの偉大な人物の盛衰とは比べ物にならないが、それでも目の当たりにしてしまうとさすがに哀れだ、と言うのです。作者が実際にどのような身分、境遇にあったのかは判りませんが、その時、彼の頭をよぎったのは、歌人として名を為した西行と同じように今梶原の墓の前で歌を読む自分が、やはり西行とは比べようのない無名の存在である現実であったかもしれません。実際、この作品は残りましたが、彼の名前は判らないままです。
平安末から鎌倉初期にかけての動乱の中で書かれた『方丈記』にも通じる無常観、盛衰を思い、名を残すことの困難と、それに対するあこがれが、この文章からは読みとれるでしょう。
さらに、そういう思いが、旅の途中での思いがけない出会いによってもたらされていること、「さしあたりてみる」ことによって喚起されたと言うことも、紀行文ならではの要素として注意する必要があるでしょう。
問5については、思いがけない名答もあったように記憶しています。そういう答えに出会えることが、採点業務の唯一の救いです。
この文章は、決して難解なものではありません。基本的な知識を組み合わせることによって、解きほぐすことは可能です。設問も、該当個所だけ見れば判るような出し方はしていませんし、解きながら考えられるように組み立ててあるつもりです。
蛇足ながら一言。こういう文章を読むと、今年の問題は小二田が一人で作ったんだろう、と考える人がいるかも知れないが、それは間違い。自分が参加したチームで作った問題なら、誰だってこのくらいの解説は書けます。そうしておかなければ、採点の分担などできっこありませんし。
尚、この問題、及び、00年度分の問題については、河合塾の「解答速報」ページに、問題・解答例・分析が掲載されていますのであわせてご覧下さい。
別のところにも書いたことですが、現実の受験生のレベルと、設問の質を秤にかけて作れる古文の問題には限界があります。そうなると今度は、古文は必要なのか、と言う議論も出てくるわけですが、それはまた別の機会に書くことにしましょう。
集計のミス
山形大学でかなり大規模な入試のミスがあった、と報じられている。これは、出題・採点のミスではなく、センター試験のデータをどのように利用するか、という処理の段階で起こったミスで、受験生の情報開示請求によって明らかになった物らしい。地元の予備校では前から疑問を持っていたらしい。他の大学についても疑問があったら調べた方がいい。静岡大学でも点検作業が始まる由。そのようなことがないことを祈るのみ。
「入試問題を作る」というこのページの趣旨からは外れるが、入試業務という物がどういう仕組みで行われているか、ということを明らかにしないと、こういう問題は無くならないのではないかと思うので、少し書いておく。
静岡大学(少なくとも人文学部)では、出題から合格通知の封筒に宛名シールを貼る所まで、入試業務のほぼ全てに教員が関わっている。それは、職員(非教員)に任せることが、情報の漏洩や不公正に繋がるとか、教育そのものの自治といった理念の問題であるらしい。結果的には、それが、教員の労働超過状況を生んでいるのだけれど。それはそれで、職員激減の時代だから仕方が無いとも思う。また、これらの段階でのミスはあまり聞かないようにも思う。ミスが多いのは、出題。これはつまり、発覚しやすい。ということだろう。他のミスはあってもない分で処理されるだけで済まされる気がする。例えば、解答用紙の回収での並べ間違い(これはチェックする係がいるので、採点までには修復されている。報告はあるが影響はない)。で、残るのが、採点・転記・集計のミス、ということになる。私自身、これらの全ての過程に参加したことがある(このメンバーも原則非公開だと思うが、「経験者」であると言うことぐらい公開していいでしょう)ので、少し経験をまとめておこうと思う。
採点は、出題者グループが担当する。採点者は、受験番号が見えない(つまり、受験生が特定できない)ように綴じられた答案で採点する。国語の場合、現代文・古文・漢文を別々に採点・集計し、点検しあったあと、合算して国語の点数を出す。この間、もちろん簡単な足し算のミスが全くないわけではないが、複数の人がチェックすることで最終的には間違いのないものになっているはずである。採点者の仕事はそこまで。
転記係は、集計用紙に点数を転記する。このときは受験番号がわかる(つまり、受験生やその近親者から受験番号を知らされている人が、数字をいじることが可能)が、複数でチェックすることで不正を防いでいる。これが、最終的な集計の係に送られる。
集計の担当者は、あらかじめ送られてきているセンター試験のデータを、必要な情報に書き換えておき、二次試験のデータと合体させたあと、総合成績順にソートして、合格判定の担当に渡す。
今回の山形大学のミスは、集計者が、センター試験のデータを書き換えるときに起こったもので、報道によれば、【国語の試験の内、現代文のみを取り、200点満点にする】、という処理をしていなかった物らしい。山形大学では、この処理をどのようなスタッフが担当していたのかわからないが、工学部という話なので、教員は数値処理はお手の物ではないか、と言う気がする。今日の報道では、職員が、そのような配点そのものを知らなかった、という話のようなので、問題はコンピュータや数値処理ではないらしい。
実際、現在、自分の学部・学科の入試が何種類行われていて、それぞれセンター試験と二次試験の配点がどのように案配されているか、ということを即座に答えられる人は殆どいないと思う。勿論、頭の中になければならないものではないし、集計の係がそれを知らないままだった、というのは論外なのだけれど、そういう配点を決めたメンバーや時期と、実際の集計のメンバーのズレを考えると、同情したくなる部分もある。それほどに、最近の入試は多様化・複雑化しているし、コンピュータの処理が便利になった分、安易に仕組みを変えてしまう嫌いもある。
最近は、「学力」低下の問題もあって、センター試験の科目数を増やそうという動きも活発になっているから、かなり複雑な処理が必要でもある。言語文化学科の場合でも、前期日程・後期日程・推薦試験とそれぞれにセンター試験と二次試験(個別試験)の科目や配点が異なっている。それは、過去に慎重な議論の末に決定されたことではあるけれど、絶えず確認し、解りやすく、意味のあるものにしていく必要はあるだろう(とはいえ、毎年変わるようでは受験生は困るのだけれど)。
私自身は、理系的な思考方法の基礎を持った人に入ってきて欲しいと思うのだけれど、さて、それがセンター試験で問えるのかというとまた別の議論になりそうだし……。
ともあれ、静岡大学は入試情報の開示に積極的なので、受験生側も積極的に請求すればいいと思う。そのことによって、今回のようなミスも発見できるかも知れないし、中にいると気づかない陥穽を見つけて修正することも可能になると思う。情報公開は業務の質を上げることになると期待している。
集計ミス その2
富山大学、金沢大学。山形ほど大規模ではないが、また集計ミスがあった。隠蔽されていた。山形も含めて、ミスの情況も、その後の対応も、大体同じ構造と考えられる。大学によって、入試データの電算処理を担当するグループの構成は異なるだろうが、単純な情報伝達・確認のプロセスに手抜きがあり、その結果生じたミスを引き継ぎ、発覚したら頬被りする。
静岡大学でも、山形の事件を受けて過去に遡る再点検を行い、既に問題がないことを確認したらしい。どの大学もそう言う点検を行っている事だろう。問題があれば公表するに違いないけれど、雪印の事件のように、最初は問題なしだったはずが、あとでまた発覚するような自体がないことを祈る。つまり、再点検がどのように行われたのか、と言うことを公表しないとその結果の信憑性は薄れると言うことだ。問題のあった大学でもシミュレーションは行ったらしいが、問題になったような受験生の例がサンプルになかったと言うことなのだろう。私が担当したときのシミュレーションでは、送付されたデータを印刷した物から、手作業で同じ計算を行うサンプリングを、ランダムな検出と共に、受験科目が複雑な受験生や、多くの科目を受験している受験生については、別に抽出してテストした。そう言うアナログ的な確認作業はいつになっても必要なのだと思う。
さて、そう言うミスの発生、継承、隠蔽と言った自体は、どれをとっても許されることではない。受験生の人生を軽視しているという批判もその通り。しかし、ここのところの議論には欠けている論点があるように思えてならない。前にも書いたことだが、入試情報処理のためのプログラムは、各学部・学科の教員が個別に担当する。恐らく、どの大学でも同じようなものだろう。それは、入試や教育の自治のために必要な作業ではあるが、正直の所担当教官にとっては、身体的にも精神的にも、大きな負担になっている。電算処理と言っても、表計算ソフトが使えれば何とかなる程度だから、インターネットでこのページを見ている人にとっては、大したことはないと思われるかもしれない。しかし、大学の教員のすべてが、コンピュータ、特に表計算を日常的に必要とする学問に従事しているわけではない。わたし自身、ワープロとメールの他は殆どパソコンを使わなかった物が、会計委員と入試情報を担当する過程でロータスやエクセルを曲がりなりにも使えるようになり、今は成績管理などにも多少使っていると言うのが現状だ。で、問題は、一生そうした電算処理に関わる必要のない教官は、このような仕事に従事できないとなると、いつでも特定の人がこれを担当せざるを得なくなる。特に文系の学部・学科では相対的に担当可能な教官数が少ないので負担が大きい。手当を付けて継続的に担当するのも手かもしれないが、それはそれで不公平だし、担当の流動性がなくなると却って今回のようなミスが発見しにくくなる心配もある。つまり、現在の入試情報処理の仕組みそのものに、かなりの無理があるのだ。入試業務は、情報処理だけではない様々な要素がある。それらが、教員の教育・研究活動を圧迫している事実を知って欲しい。入試は大事だ。だから外注には反対である。しかし、今の入試制度が我々を圧迫するのは、入試の多様化という名のメニューの数々と、それらに付随するセンター試験と個別試験の組み合わせの複雑さに原因がある。どのような学生を受け入れたいのか、そのためにはどのような入試携帯が必要なのか、その時センター試験を参照することがどの程度必要なのか。そして、必要であれば、どの教科・科目をどういう配点で採用するのか。こうした議論が充分に尽くされているのだろうか。尽くされたとして、それが受験生に伝わっているのだろうか。
例えば、推薦入試にセンター試験の成績をどう活用するか、と言う問題。足切り的な基準点程度でよいという人から、基礎的な学力の判断として充分な配点が必要だという意見まで、学科の中にも幅がある。推薦にはセンター試験は必要ないという意見ももちろんある。ここには、「学力」とは何か、と言う根本的な問いかけがあるのだ。しかし、表面にでてくる時には、受験生の負担、教員の負担と言った問題になってしまう。この辺りにも一つ議論すべき問題があるように思う。
話を戻そう。今回の一連の事件で問題なのは、安易に複雑化した入試のメニューに対応しきれないと言う現実の責任はどこにあるのか、と言うことである。自分たちのキャパシティにあった入試を行うなら、センター試験は使いたくない。今後、独立行政法人化や、AO入試の導入など、情勢が変われば、センター試験そのものも見直されていくだろう。センター試験を2度行うと言う案は、現場の負担を増やすだけに映る。センター試験を今後も同様に利用して行くなら、似たようなミスは起こり続けるだろう。それを防ぐためには、各大学・学部・学科が採用するメニューに従ってセンター試験のデータを処理する作業そのものを
大学入試センター
が担当するくらいの事はあっていいと思う。それが不可能だというなら、せめて、配点を入力すればデータ処理ができるソフトを毎年配布して欲しい。そう言う対策をとらずに、個別の大学の問題として処理してしまおうとしている、今の文部科学省の対応には疑問を抱かざるを得ない。
学力と言うこと−2
集計ミスの問題は、いまだに尾を引いている。そんな中で、独立行政法人化や入試改革の問題がどんどん進んで行っている。入試問題の作成も今年は気分が違う。
集計ミス問題では、誰にとっても言いにくいことなのだけれど、やっぱり黙ってやり過ごせない疑問がある。「間違って失格になってしまった人達」については、手厚い対応がとられた。場合によっては人生の軌道が狂ってしまった人もいたかも知れない。しかし、その影で、「間違って合格してしまった人達」が、同じ数だけいたこと、その中の多くが、その大学にいると言うことについては、表だって問われていない。勿論、ミスで合格したからと行って、今更取り消せるわけはないのだから、そのこと自体はとやかく言うつもりはない。問題は、多分、この、「間違い合格者」たちも、普通の学生と変わらない学生生活を送っているだろう、と言うことなのだ。
大学は、あるべき入試の形を求めて、入試の成績と、その後の学力についての調査を行っている。しかし、充分なデータが出揃う前に、他の要因で仕組みが変わってしまうので、実のところ、入試の効果についてはっきりしたデータはないように思う。そもそも、この追跡調査にも大いに疑問があるのだけれど、それは少し後で述べる。
さて、「間違い合格者」である。彼等は、本来なら不合格だった。もし、彼等が、揃って大学の授業についていけないのだとしたら、集計のミスなど帳消しになるくらい、素晴らしい入試のシステムが存在したことになる。勿論、定員があるわけだから、受験生全員が授業についていけるケースもあるかもしれないが。ともあれ、今回の一件は、わざとでは出来ないテストケースなのだ。それぞれの大学は、罪滅ぼしとして、是非、「間違い不合格者」「間違い合格者」のその後の成績調査ぐらいはしていただきたい(勿論、当該学生に自覚させずに)。
何が言いたいかというと、入試によって試された学力は、大学で学問をするための条件たり得ていたか、と言うことなのだ。上にも書いたように、実際には定員と倍率という問題があって、非常に優秀な受験生でも落とさざるを得ない場合もあるし、逆に、多分付いてこられないと思われる学力でも定員確保のために合格させなければならない時もある。特に最近は受験生も減っているし、全体の「学力」が低下しているから、後者の場合が非常に多い。しかし、それはそれとして、入試が有効なのかどうか、考えてみなければならない。
ここのところ、センター試験を5教科7科目必須を復活させる傾向が強まっている。それによって、基礎学力の向上を図るのだという。またしても、「学力」。センター試験で測る学力。センター試験の問題がすべて悪いというつもりはないし、マークシートで思考力は測れないと言う主張をする気もない。それにしても、尚、個々の大学が何を求めているのか、見えない。
AO入試や、それに類する新しい制度が少しずつ導入されつつある。多大な負担を覚悟でしっかり運営すれば、良い結果が出るのではないかと期待している。総合学習などの成果も活かせるのではないか(どんな総合学習が出てくるのか、未知数だが)。
大学がどのような学生を受け入れたいのか、と言うことが、はっきり見えない。入試の外注はリアルな問題だが、現状でも、英語や外国語の問題を日本文学語学・英米文学語学の教官に任せてタッチしない学部学科はかなりに上るはずだ。出題者は、個人ではない。その試験を実施する組織そのものの、共通の了解が必要ではないか。
組織そのものの了解は、つまり、学力についての了解に繋がり、そこから、先に触れた、「追跡調査」の問題にリンクする。例えば、前期日程(二次試験も学科試験)・後期日程(二次は作文)・推薦入試(作文と面接)で入った学生のその後の成績について調査をして、優・良・可・不可の数を集計することに、何の意味があるのか。例えば、ユニークな作文や発言で合格した学生が蓋を開けてみたら大した成績ではなく、前期日程の学生の方が余程出来がいい、と言うことがある。学生の入学後の成績評価をするのは、入試を行った教員である。多くの教員の学力観が相変わらず「記憶偏重」で、そのような試験で評価していたなら、当然そのような結果が出る。「生きる力」を評価するなら、入試・授業、そして社会まで、全体が、学力観をそのように見直さなければならないのは当然だ。そうでなければ、結局、「とは言っても入試が」「とは言っても会社が」と言って、元通り。
現在の入試では、推薦入試でさえ、センター試験の成績がかなりの比重を占める。そういう中で、ユニークで、「何か」光る物があるが「学力」の劣る受験生を採るのは非常な勇気が要る。授業に付いてこられないのでは困るし。しかし、そういう学生を思いきって受け入れ、光る何かを伸ばす度量こそが、大学の教育機関としての意義なのではないかと思っている。
文法不要?
久しぶりに学会(日本文学協会 研究発表大会 02,07,07)を覗いて、色々収穫もあった。題目に惹かれて国語教育部会の発表も聞いた。古典教育は危機に瀕していること、その認識はその通りだろうと思う。で、その発表者は、文法教育が古文嫌いを生んでいること、文法は現代文でやればいいことを力説していた。文法が楽しくて古文を深く理解できたと言う生徒の経験談を「嘘だ」と断言してまで言ってこの人は何が言いたいのか。少なくとも言えることは、この人に文法を学んだら文法嫌いになるだろうと言うこと。やれやれだ。
私自身の経験から言うと、古典文法は、散々だった。高校3年生の時に、助動詞の活用表の試験があって、ほぼ白紙で出した記憶がある。学部時代は「仮定条件」と「確定条件」の区別も付かなくて演習で後輩に指摘されたこともあった。しかし、今なら、活用表を作れるし、仕組みを説明することもできる。大学院に入ったあと、塾で教えるために、全文品詞分解をした成果だ。それだけでなく、予備校で古典文法を担当した時には「文法は感動的なんですね」と言ってくれた生徒もいた。そう、少なくとも、文法は無味乾燥な暗記学問ではない。自分たちが何気なく使っている言葉に法則がある事、それを見つけ出していくのはスリリングでさえある。古典文法、国語史は、歴史的変化の中でそれを検証していく学問だから更にダイナミックで面白い。多分理系の人がはまると相当楽しいと思う。そういう喜びを教えられずに、答えだけを憶えさせられたら誰だってつまらないだろう。美味しいところをちゃんと伝えて欲しいんだ。それは、思考の過程を伝えることでもある。論理的思考を鍛えることでもある。高校や予備校の国語の授業がそんなだったらどんなに楽しいことか。
問題は、結局、語呂合わせで憶えれば解けてしまうような文法問題があふれかえっている現状なんだろう、やっぱり。そういう問題が入試から駆逐されれば、生徒たちは文法から解放される。それはその通り。
しかし、それじゃぁ、文法は不要なのか、と言う問題は、やっぱり残る。古典をしっかり理解するためには、文法の知識は不可欠。そうなるとなぜ古典を学ぶのか、と言うことになる。それは、なぜ文学を学ぶのか、と言うことに繋がっていくので、別の場所に書こうと思うが、文法は、やっぱり必要だし、試験には出す。ただ、暗記してりゃぁ出来るような問題じゃなくて、「学力1」の所に書いたように、文章の環境の中から法則を見出す力を問うような問題にシフトしていく必要があるだろう。一度に変わることはないにしても、入試問題は変わらなきゃいけない時に来ているのは確かだ。
学力と言うこと−3
就職委員の教員から、求人情報が回ってくる。ありがたい話で、ご苦労は並大抵の物じゃないと思う。そういう情報の中に、採用側の認識を知る手がかりが入っていることがある。あまり具体的に書くとしかられるかもしれないが、超大手企業の採用担当者の話として、「大学における成績は、いっさい参考にしない。オール可でもいっこうにかまわない。統計結果を通して、大学の成績と仕事の能力は、全く無関係であることが実証されているから。」だそうだ。静岡大学が、とか言うレベルでなく、日本の(世界の?)大学教育が、否定されている。じゃぁ、その企業はどういう学力を求めているのか、と言うと、
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コミュニケーション能力の高い学生
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論理的思考力の有る学生
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突破力の有る学生
なんだそうで、簡単な筆記試験で全くできない学生を足切り、殆ど面接で決めると言うことらしい。多分面接で、上の3項目をチェックするんだろう。この3項目は、よく解る。社会人として当然持っている必要がある力、今風に言えば「生きる力」だ。問題は、そういう力がどこで育まれたのか、と言うこと、もし大学教育が幾ばくかでも関わったのだとしたら、それは、成績と「全く無関係」なのかどうか。
外国の事情はよく知らない。「学力」については世界中で悩んでいるらしいことは、新聞などで多少見ているけれど。で、日本の「学力」がゆがんでいるのは、「試験」というハードルのシステムがおかしいからじゃないか、と、強く感じる。上の、「文法不要」論も、入試とリンクしている。高等学校の教員たちと話をした時も、「試験に出るから勉強させる」と言う発想が気になった。2の終わりの方に書いたように、入試や入社試験、資格試験に向けて勉強は存在しているのが実状。その「実状」を肯定するなら、そして就職試験が、本当にこうした力を正当に判断しているのなら、我々は、そういう力を教育の現場で鍛えなければならないし、大学入試にもそういう要素を入れる必要がある。
今、仮定の話として、これを書いたのは、就職試験がそういう部分で行われているのかどうかの疑問が拭い切れないと言うこともある。しかし、もっと大きな問題として、これらの能力は、就職試験のために鍛える類の物ではなくて、誰でもが持っていなければならない力だ、と言うことに尽きる。就職試験に対応するために、では、結局システムの中でのその場しのぎの対処法を学んだ方が勝ちの世界から抜け出せない。「傾向と対策」の世界を抜け出して、専門性と教養、思考力を備えた人材を作ること、そして、それを正しく評価して成績に反映させること。つまりは大学教育その物が問い直されなければならない。
ちょっと、内容が、入試から離れてきているので、「学力」問題は、今後は、別のページで展開するかも。